映画『ひかりの歌』について

学生時代と一しょにすて去ったつもりだった詩を、またかきはじめて、もう四年以上になってしまった。
もうかくまい、と何度も思いながら、どうしてもかかずにはいられなかった。生活の手ぬるさ、生あたたかさ、あいまいさに、一刻どうしても燃えるようなクライマックスが、ほしかった。
独りきりの穴の中で、手さぐりでかきつづけたものが、こうしていつのまにか たまっていった。
それらの詩を、まとめることができた今、わたしはうれしく、そしてさびしく、
そしておそろしくてならない。
さようなら わたしの詩たち。わたしはおまえたちと別れて、また新しく出発するしかないのだ。
(『砂時計』より「おわりに」)

―現代詩文庫 征矢泰子詩集 より

日常からかけ離れた、非日常じゃなくていい。
日常の中に、「クライマックス」がほしい。
ちゃんと生活に戻ってこれるように。
帰り道を見失わないように。

そんなふうに思うことが、最近だんだん増えてきたように思う。

私の中では、読んで味わうにしても、自分でつくるにしても
その「クライマックス」、沸点こそが短歌で、
生活の中の何を沸点とするかにその人の人となり、個性が
あらわれるなぁとよく感じる。
それは誰にとってもわかりやすい沸点でなくていい、
その人にしかわからないほんの些細なことが沸点でいい。
この『ひかりの歌』という4つの短歌をもとにした映画を観て、
杉田協士監督のお話を聞いたときにも、
監督は「この短歌を読んだときに、よくわからないと思った。
でも、わからないなりにいいなと思ったから、映画にしてみようと思った。」
とおっしゃっていた。

誰しもにとって簡単にわからせないように、
「クライマックス」はリアルの世界のクライマックスと
ずれているくらいがちょうどいい。
そのずれがポエジーを生む。
読む人に、観る人に、想像の余地を与える。

そういう沸点は普段気づきにくいだけで、誰しもが持っているもの。
膨大な人生の時間軸から見たらほんのわずかな一瞬にすぎないものかもしれないけれど、
その沸点を、気持ちの高鳴りを、物語の栞を、
自分の中で大切に持っていることが、
その人を強くしていく。
その人らしさをつくっていく。

クライマックス、沸点は、日常の中にあると低くなるのではない。
地盤がしっかりあるからこそ、それを蹴って高く飛翔できるように、
現実を足場にして精緻に構築されてゆく。
そのクライマックスから日常をまなざすという行為、
他者に垣間見られる範囲を超えた、たった31音、数時間の間のスクリーンに
おさまりきらない「外側」の時間もできる限りまるごと映し出すという挑戦が、
この映画という形になったのだと思う。

生活にクライマックスを持つということは、短歌をたしなむ人だけの特権ではない。
だから、短歌をベースにした映画ではあるが、
登場人物が短歌とまったく接点を持たないことが、
すんなりと身体に入ってくる。
誰にでも等しく、その人だけのクライマックスがある。
逆に言えば、クライマックスになる場面にうまく気付いて拾うだけで、
誰にでも短歌を詠むチャンスはある。

自分だけの人生のクライマックスと対峙する孤独を抱えながら、
ひらかれた、風通しの良い人間関係の中で生活していく登場人物たち。
孤独と、他者との調和が同時に描かれているこの映画は、
短歌という孤独が、孤独にとどまらず、
他者との調和の鍵にもなりうる、ひらかれたものであり、
あらゆる想像を許す、懐の深いものであることを、
やさしく、ゆるやかに指し示している。

そして、孤独と向き合い、自分の一部として背負ったとき、
その孤独は、闇に溶け込んでしまう隠れみのではなく、
お互いにたしかに呼応し、つよく惹きつけあう光となるのだ。

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