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ロンドン、夜の美術館

 生まれて初めての海外旅行は新婚旅行だった。まだコロナが広まる前の2017年秋に、夫とイギリスの主にロンドンに3,4日だけ滞在した。日常的に父が単身赴任で不在、かつ経済的に余裕のない家庭に育ち家族旅行というものをあまり経験してこなかった私は、飛行機に乗るのすらそれが初めてだった。行き先は「大学の卒論で書いた作家ゆかりの地を回りたい」という私の希望を夫が聞いてくれて、往復の航空券とホテルの宿泊がセットになった質素な個人旅行をベースに、私の行きたい場所へ行くオプションのツアーや個人行動の計画を夫が組んでくれた。表向きには贅沢などとはかけ離れた地味な旅だったが、個人的にはとても満足のゆく旅だった。そして夫もその旅を一緒に楽しんでくれた。大学で英米文学や英語学を学び、仕事でも普段から英語を使っていたので、現地の人とのコミュニケーションにもほとんど困らなかった。
 その当時私は美術館に併設されたミュージアムショップで働いていたのもあり、イギリスに行ったことのある後輩から聞いていたおすすめの美術館にも行くことにした。あまり治安がよくないと噂されるロンドン東部にある小さなギャラリーだった。下調べもなしにロンドンに着いた当日の夜にそこへ行くと、突然見たことのある世界が立ち現れた。以前、自分が働いている美術館で展示されていた写真家の展示が行われていたのだった。働いていた美術館で展示が行われた際、初めて自分が販売を担当することになった彼の展示の日本語の図録も、ギャラリーに併設されたお店の片隅に置かれていた。嬉しい偶然だった。大学の卒論で書いた作家だけでなく、ここにも私とイギリスをつないでくれるものがあったと感じた。
 彼の作風も好きであったが、働きながら夜間学校で写真を学んだという経歴にも、大学時代経済的に苦しかった私は勝手にシンパシーを感じていた。裕福な家庭に生まれ育たなくても、国際的に活躍できるアーティストになれるということを証明してくれているようで、心強かった。
 展示を見終えて、ギャラリーのミュージアムショップで少し買い物をして外へ出ると、一人の男性に話しかけられた。話を聴いていると、家に帰るお金がないから、オイスターカード(というロンドンの地下鉄で使えるプリペイド式のⅠCカード)に入れるお金をくれ、ということだった。おそらく私たちがギャラリーから買い物袋を提げて出てきたので、富裕層と思って声をかけたのだろう。近くに夫がいたのもあり、私は軽く断っただけで立ち去ることができた。
 私に声をかけた彼は、そのギャラリーで行われている展示がどんなものか、そのアーティストがどんな努力を重ねてきたのか、おそらく知ることなく生涯を終えるだろう。自ら人に与えず、人から与えられることを待つ生活をしている限りは。そして彼は、かつての私だった。奪うまではいかなくても、受け取ることだけを待ち、自ら与えられるものなど何一つないと思い込んでいたもう一人の私であった。それは金銭的、物質的なものだけでなく、価値を見出してもらえる作品、創造物に関してもそうだった。そう、私は芸術や文化に興味があり、自ら生み出せる人になりたいと思いながらも、芸術や文化は生活に余裕のある人しか生み出せない、そういったものを生み出せるのは私とは別の世界の住人、私は表舞台に立っているような人間とは違う…と考えることが度々あった。奨学金を得て大学に入学したものの、初めてのアルバイト先で社員からセクハラを受けて食べ物がのどを通らなくなり、大学へも行けなくなって急激に瘦せ、奨学金も取り消されてしまった。そして精神疾患を患った。父がリストラに遭い、実家の収入がなくなった。大学の学費自体を得るだけでも辛くて精いっぱいだった。自分が望む道を進むことは、許されないのかもしれない。でも、そう考えて気持ちがふさぎそうになると、必ず私を励まし、志した道から逸れないように導いてくれるガイドのような人がそばにいてくれた。風邪をひいて点滴を打ちながらも、私の大学受験を最後までサポートしてくれた高校の先生。退学を相談しに行ったときに、私の研究室で何でも好きな研究してもいいから卒業しなさいと言ってくれたり、休学中もすすんで卒論の指導をしてくださった大学の先生方。そんな人と出会い、その人たちとの出会いを無駄にはできないと思った。そして、自分も文章で人を励ますような、人の背中を押すようなことができたら、と思った。
 好きで誇りに思っていた仕事も、結婚と出産を機に辞めてしまった。でも、それでがんばって卒業した大学での生活や積み上げてきたキャリアがすべて無駄になったとは決して思わない。何しろ、私には二人の子どもというかけがえのない宝物がある。子どもたちに、私を支えてくれた人たちに、果たして私は何を差し出せるだろうか。今もあのロンドンのギャラリーの外で声をかけてきた彼に、試されている自分がいる。

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