見出し画像

Distance

 あの豪雪のはじまり、2018年になったばかりの1月3日だったと覚えている。仕事から帰ろうと車を出すと、うっすらと雪が道路を覆い始めていた。金沢市にある職場からかほく市にある自宅までの道は短くはない。山側環状道路のいくつもあるトンネルの一つを抜けて、スピードを落としきれなかった車は雪道に押し出され、スリップした。幸いほかの車にはぶつからなかったが、ガードレールにぶつかって停車し、車は使いものにならなくなってしまった。車を失ったかわりに、わたしは無傷だった。はじめて起こした自動車事故だった。夫からは何も咎められなかった。ただ無事であること、人を巻き込まなかったことをよかったね、と言ってくれた。
 わたしは結婚するまで金沢市の中心部に住み、車をもっていなかった。結婚を機にかほく市に移り住み、必要だろうからと夫がそれまで乗っていた車を譲ってくれたのだった。わたしを助手席に乗せていろんな場所へ連れて行ってくれた車。母には「夫さんが守ってくれたんだよ」と言われた。
 そのときずっと頭のなかにあった「仕事を辞める」ということを、事故を起こしてすぐに決意した。仕事のストレスがかなり溜まっていて限界だった。自分の命は自分で守らなければならない。自分の命は、もう自分だけのものではなくなっている。上司に辞める旨を伝えると、最初は渋るような反応だったものの、事故を起こしたことと「従業員としての私の代わりはいくらでもいますが、妻としての私の代わりはいないので」と言うと、諦めがついたかのようにあっさりと「そうだね」と言われた。
 

 一か月仕事を休み、2018年4月に大学医学部のなかの医局の事務員に転職した。懲りずに金沢市内だった。転職してすぐに妊娠がわかり、また短くはない道のりを、つわりの気持ち悪さと大量に出るよだれとたたかいながら、車を運転して通っていた。片側一車線の山側環状道路で大きなトラックと何度もすれ違う。ちょっと気を緩めてしまってこんな大きな車とぶつかったら、ひとたまりもないだろうなと想像する。
 産前に体調を崩してしまったのもあり、産休育休は取らずに退職することにした。子どもが1歳になる頃、コロナウイルスが猛威をふるいはじめた。退職せずに仕事に復帰していたらどうなっていただろうと何度も考えた。わたしの命は、ますますわたしだけの命ではなくなっていた。そして、守らなければならない命を抱えていた。何度も何度も、見えない死とすれ違いながら。


鮮明に印刷された症例に浮く老医師の学んだ時代
手術(オペ)の赤い映像観ながらランチ摂る白い人たち灯台みたい
われはただ胞衣(えな)となりゆく一頭のくじら見渡すかぎり海のみ
白衣でも隠しきれないふくらみに身ごもる命も他者の手に産む
しんと聴き白くたたずむ箱ティッシュ産科病棟の説明室の

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?