【35. 擦れ違い】

「お疲れ~。何ぃ?話しって」
迎えの車に乗り込んだ彼女にそう問い掛けたのはカレ。
「…ごめん…後で話す……」
「…なんか引っ掛かる言い方だなぁ…
ま、いいや…じゃ後で聞くから…
とりあえず動くよ?」
「うん…」
…はぁ~…
「どうした?疲れてんの?溜め息なんか吐いて…」
「ん…?あ…深呼吸しただけ…」
なんて彼女は惚[とぼ]けてみせた。


本当なら…
カレとの関係は、ずっと前に終わっていた。
ずっとずっと前に…。
─カレには…私と一緒になる気なんて…─
それに気付いた時点で…。
しかし、この二人はその後も関係を続けてきた。
それは…
不倫によってもたらされる背徳感…切なさやドキドキ…

─カレへの愛情によるものだ…─
と彼女が勘違いし、余計にカレに上気[のぼ]せてしまったから…
だとしたら…
“良くある話し”で片付けられるのだけれど、実際は違う…。
カレの本当の気持ちに、気付いていない振りをしてきた。
敢えて、カレからの愛を、そしてカレへの愛も信じようとした。
カレと逢う口実を作りたかったから。
自分の中でその言い訳を見出だすため。
そうして自分を正当化しようとしたから。
要するに
カレとの関係は…“偽りの愛”
それを重々承知した上で…
彼女はこれまでずっと
…カレとの関係を続けてきた…
ということ…。

でも…
彼女がそう出来たのは
─それでも…逢いたい…─
と思えるくらい…
それくらい…
カレが素敵な人だからこそ…。

さすが営業職だけあって、巧みな話術。
そして、それを引き立てるユーモアのセンス。
ただ単に
─一緒にいて楽しい─
と思えるだけじゃない。
会話の中に見え隠れする知識の豊富さ。
端々から感じられるカレの住む世界の広さ。
ちょっと強引なくらいの行動力や物事に対する前向きな考え方。
幾らでも浮かんでくるカレの魅力…。
それらは、彼女が想い描く
“男らしさ”
としては充分に足るもの。
時々カレは、ふとした彼女の言葉に対し、その技能を巧みに活かして然[さ]り気無いアドバイスをすることも少なくない。
現に、彼女の仕事に対する考え方は、カレの影響を多分に受けている。
カレと一緒に過ごした時間に比例して、彼女は少なからず精神的な成長を遂げてきたことに疑念の余地はない。
そういった影響力も…カレの魅力のひとつ…と言えよう。
そして…
そんなカレの優しさに包み込まれた時の、この上ない心地よさ…。
彼女にとって、カレは…
何事に対しても頼れる存在…。

けれど、それは…
─彼が頼り無い…─
という意味では決してない。

並んで歩く時、彼はいつも車道側の手を握る。
そして、彼女と同じ歩調。
ドアを開ければ、
─お先にどうぞ?─
の視線を投げ掛ける。
メニューは先に彼女へ。
基本的に彼女ファースト。
ある日、彼女が事故に巻き込まれた時は、仕事中だったにも拘わらずすぐに駆け付けてくれたし、そのせいで暫く寝込んでいる間も看病の傍ら、彼女の代わりに色んな手続きもしてくれた。
勿論、食事の用意も。
危な気な手際ながらも、普段から彼は進んで作ってくれる。
彼女がお料理担当なら、彼は食器洗い係。
一緒に暮らしていた時は、給料の半分以上も生活費に充ててくれた。
例え今はどんなに離れて暮らしていても、ベッドに寝転んで携帯に触れれば、彼は耳元で囁いてくれる。
「愛してるよ」
と。
お互いの出来事を伝え合う日課が2人の距離を忘れさせ、寂しさを埋めてくれる。
まだ付き合い出す前からずっと…
時間さえ合えばいつも、仕事の送り迎えをしてくれる彼。
ある日、
「エンジン掛かんなくってさぁ…迎えに行けないかも…」
彼の車が故障か何かで動かなくなった時だって、部屋から片道10kmちょっともある距離を自転車で迎えに来てくれた。
だけど…
「あ、彼女さん!お疲れっす。今、帰りっすか?」
駐車場で同じ職場の男の子から声が掛かった。
「そっ。これから帰るとこ」
「彼は?」
実は、その男の子…緒方くん…は、奇遇にも彼女がこの職場に配属されるずっと前からの“彼のお友達”。
3人で出掛けたり遊んだり…するほどではないけれど、仕事中に見掛ければ挨拶を交わしたり、互いに時間があれば立ち話しすることもある。
この時間帯なら、普段彼が迎えに来ていることも知っている。
「なんか…車、動かなくなっちゃったんだって…」
「あ、そうなの?だったら…」
住んでいる所も近く、帰宅ルートは彼女の部屋のすぐ前の道。
たまたま帰り時間も一緒…ということもあって、
「良かったら乗ってく?」
「いいの?じゃあ…お願いしよっかな?」
お言葉に甘え、部屋まで送って貰えることに…。
となれば、まだ懸命にペダルを漕ぐ彼とは運悪く擦れ違う…。
何度も掛けてきていた彼からの電話に暫く気付かず、やっと気が付いた時には…
「今どこ…?俺…今職場の前なんだけど…?」
「え……?ごめん…もうお部屋の前…。緒方くんに乗せてきて貰ったの…」
「えぇ~~!?…何でぇ!?」
そんなやり取りが聴こえていたのか
「あ、ちょっと代わって…」
と緒方くん。
「ごめん…俺、余計なことしたみたいで…」
「いやいや…そんなことないよ…こっちこそごめん…ありがと」
それから暫くして、汗だくで部屋に戻って来た彼は酷く不貞[ふて]腐れていたのを覚えている。
「ごめんねぇ…?」
のKissをするまでは…。

時には、先走り過ぎてそんな失敗もするけれど、なんだかんだ言っても…それも彼女を想ってのこと。
いつも優しい気遣いをしてくれる。
年齢の割りにはしっかり者で、とっても落ち着いた雰囲気。
彼だって、充分過ぎるくらい素敵な頼もしい存在。
頼りにならない筈はない。
でも…
─これ以上彼に頼るなんて…私には出来ない…─
気が引ける…というのとはまた異なる感情…。
“彼に頼ること” = “自分の弱い部分を曝け出すこと”
そう考えていた彼女。
それには…
カレとの関係も、過去も、全てを話す必要があった。
─けど…それはイヤ…─
その理由を理解した時点で、彼を失なってしまうような気がして…。
では何故…カレには頼れるのか…
カレとは…ずっと続いてきた関係だから。
何も言わなくとも…全てを…理解している人だから。
全てを話す必要が無かった。
話さずとも理解してくれた。
それと…
─年の差…もあるかな…─
もしかすると、ただ…
“変なプライド”みたいなのが彼女を邪魔をしていた…
それだけだったのかも知れない…。
それは…否定できない。
けれど、もし…
それを聞いたら…
彼はどう思うのだろう…。

あの…真っ白なテラスに降り注ぐ日射しを分厚いカーテンで遮った小さな部屋の大きなベッドの上で
「なんか…好きになっちゃったかも…」
そう告白された彼女が返事に困っていると
「やっぱ…年下じゃ…ダメ?」
彼がそんな風に訊いてきたことを、彼女は今でも鮮明に覚えている。
その頃の彼のファッションと、今のとを比較すると、まるで別人…。
元々は結構メジャーなプライベートブランドで全身を固めていた彼。
俗に言う…若者の格好。
付き合い出してからもう9年目…
今はもう彼もそれなりの年齢にはなっているけれど、本当はもっと今時の、流行りの格好をしたい筈…。
なのに…
落ち着いた格好をしているのは…
─きっと私の雰囲気に合わせるため…?─

実は…
彼と彼女…2人の間には“結構な年の差”がある。
とはいえ、普段の生活や会話の中で、彼女が
─私のほうが年上なんだよね…─
なんて感じたことはなかった。
基本的に彼は滅多なことでそんなことを口にしないし、態度にも出さない。
ただ、唯一…
彼の自分の誕生日が来る度に
「ちょっとだけ…近付いたねっ?」
と微笑みながら優しくKissをする。
そう…
ひとつだけ年齢の差が小さくなる2ヶ月間
が訪れたことを喜ぶ時以外は…。

それを思えば
─俺は年下だし…─
と彼は負い目を感じ、彼女に合わせようと必死に爪先立ちしていたのかも知れない…。
少なくとも…
気を遣ってくれてたのは
─気にしていた…─
っていう確かな証拠…。

なのに…
彼女のしていることは
─年下の彼じゃ頼り無い…─
そんな烙印を押すかの如き非情な振る舞い。
「逢ってない…」
と言いながらも、年上のカレとの関係をまだ続けている。
今だってそう…。
カレと逢っていること自体…彼の想いに報いるどころか裏切り…でしかない。
しかも…
彼はずっと前からそのことに気付いている…。
「逢うなら…逢いたいなら…ちゃんと言ってね…?」
でも…
─言えなかった…─
…それは彼女の言い訳。
彼にしてみれば
─言わなかった…─
としか思えない。
どんなに彼女が取り繕おうと、彼にとってこの状況は、酷い仕打ちとしか言いようがない。

彼の想いを踏みにじってきた彼女は、罪の意識を感じてはいた。
だが、彼女に自分の存在価値を否定されているようにさえ思える彼の気持ちを考えたら…
心への負荷は想像すら難いほど歴然。
─それでも彼は愛してくれてる…─
彼女にそんな傲[おご]りがあった訳では決してない。
しかし…
それでも彼が彼女を愛していた…ことは事実。
そのくらい…彼女が甘えられる存在…だった彼。
そんな彼に、辛く、苦しい想いをさせてきたのは、その全ての行動を決断してきた…彼女。
─悪いのは全部…私…─


「あぁ判った…『もう逢わないことにする…』…か?」
動き出した車の中で、急にカレは思い出したように話し出す。
覗き込んで見えた彼女の表情、それとさっきの口調で確信を得たようだ。
「また…?何で?」
「…ごめん…」
「………まぁ…そう決めたんだったらしょうがないさ…」
「ごめん…」
カレはごねることも、縋[すが]るような真似もしない。
それは、
大人な男性としての振る舞いを心得ているから…
自分の立場を弁[わきま]えているから…
そのどちらの意味でもない。
その必要性を感じていないから…。
下手すれば、
─数年に1度の風邪引きみたいなもの…─
或いは、
─いつもの戯れ言…─
その程度にしか捉えていない。
そう捉えるのが自然な成り行き…。
─どうせまたきっと…彼女は戻ってくるし…─
それは、決して期待なんかじゃなく
─これまでも彼女は必ず、何度となく俺んとこに戻って来た…─
という実績があるからこその…自信。
「わかったよ。
んで…?これからどうすんの?
どっかでなんか食べてかない?
それとももう帰る?」
カレはいつもと変わらぬ余裕の口振り。
その雰囲気に流された彼女は、つい…
「じゃあどこ行く?」


彼と付き合うことにしてから
─カレとはもう…逢わない…─
と決めたのは、これで何度目になるんだろう…。
でも今回は…これまでとは違う。
それは
「もう…逢わないで…」
と、彼に言われたから?
それもあるけど、一番の理由は…
─たぶん…
このままだと…
彼は…
消えてしまいそう…─
そんな予感を抱いたから…。

今、カレと逢っているのも…
そんな彼女がここにきてやっと自分の犯してきた過ちに終止符を打つため。
─絶対にもう逢わない…─
そう決めたから。
なのに…
昨日電話で、カレと逢う約束をした。
正直、カレにその場で別れ話を切り出せれば、それで済んだ話しかも知れない…。
けれど…
それはなんだか…忍びない…。
─せめて最後くらい…
ちゃんと逢って伝えたい…─
だから…。

でも…

「結局、遅くなっちゃったね…
そろそろ帰んないとね?
明日も早いんだよね?
いつもの向かいっ側でいい?」
から30分ほど掛けて、部屋向かいの公園の駐車場へ。
「またいつでも連絡して?」
「うん………でも…これで最後にする」
「うん、そっか……。あぁ、はい、これ」
「ありがと…」
と俯いた彼女をカレは抱き締めた。
二人はキスをした。
彼女もその背に腕を廻す。
膝上から溢れ落ちたDVD。
それには一瞥もくれず、二人は暫くそのまま…。
彼女は…
動きたくなかった。
離れることができなかった…。
─二人の関係なんて…ずっと前に終わってた筈なのに…─
何故だか複雑な想いが込み上げていたから…。
それを指先で払う。
そして…
「…バイバイ…」
その一言だけを残し、逃げるようにして車を降りた。
決して…
彼女は後ろを振り向こうとはしなかった…。


2019/1/28 更新
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【参照】
この章には該当する語句はありません
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【備考】
本文中に登場する、ねおが個人的に難読な文字、知らない人もいると思われる固有名称、またはねおが文中の雰囲気を演出するために使用した造語などに、振り仮名や注釈を付けることにしました。
尚、章によって注釈がない場合があります。

《本文中の表記の仕方》
例 : A[B ※C]

A…漢字/呼称など
B…振り仮名/読み方など(呼称など該当しない場合も有り)
C…数字(最下部の注釈に対応する数字が入る。参照すべき項目が無い場合も有り)

〈表記例〉
大凡[おおよそ]
胴窟[どうくつ※1]
サキュバス[※3]

《注釈の表記の仕方》
例 : ※CA[B]【造】…D

A,B,C…《本文中の表記の仕方》に同じ
D…その意味や解説、参考文など
【造】…ねおが勝手に作った造語であることを意味する(該当のない場合も有り)

〈表記例〉
※1胴窟[どうくつ]【造】…胴体に空いた洞窟のような孔。転じて“膣”のこと

※3サキュバス…SEXを通じ男性を誘惑するために、女性の形で夢の中に現れると言われている空想上の悪魔。女夢魔、女淫魔。

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