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水滴は 大河となりて 海目指す

 母が老衰のため99歳で亡くなった。五木寛之は、人の死とは大河の一滴が海に注ぐが如くだと書いている。海に注いだ一滴はやがて蒸発して雲となり雨となって降り注ぎ大河に帰る。これは輪廻転生を表現しているように思える。母の一生を五木の言う「大河の一滴」に擬えて振り返って見たい。

 1923年に生を受け、青春時代を日中戦争とそれに続く太平洋戦争の時代に過ごした。地上に降り注いだ水滴が、谷川の急流を岩に当たり水飛沫を上げながら下って行く様が思い浮かぶ。20代は、敗戦から戦後の混乱の時代と重なり、厳しい環境の中で結婚し、子育てに取り組んだ。急流を下り終わった水滴が川の淵の淀みに止まっている状態と捉えらても良いだろう。30代も半ばを過ぎる頃からは、戦後復興が本格化し生活も安定してくる。更に、高度成長期を迎え生活をエンジョイできるようになる。水滴が滔々たる大河に入り緩やかに流れを下って行くが如くとも言えそうだ。

 最晩年は老人ホームで過ごすこととなったが、そこに新型コロナウイルスが蔓延する事態となり、家族との面会もままならず寂しい思いをした。今や海に注ぎ込もうとする河口付近に障害物が生じ、流れが滞ったと見れなくもない。それでも水滴は海に帰った。こう見てくると、母の一生は「山腹に降った水滴が川を流れ下り海にたどり着く」例えに見事に当てはまっている。無数の水滴が山に降り川となるが、海まで到着せずに途中で蒸発して空に帰る水滴もあるわけだから無事に海まで到達できた水滴は、天寿を全うしたとも言えそうだ。

 自分もまもなく喜寿を迎えるので、既に河口付近まで到達している。果たしてこのまま無事に海に注ぎ入ることができるだろうか。母とは違い、自分の半生は激しい流れに揉まれることもなく、ただただ大河を揺蕩っていたようなものだが、河口が近づいてから雲行きが怪しくなっている。パンデミック、ロシア・ウクライナ戦争と世の中騒然、海は荒れ模様で、すんなりとは海に行き着けないのではないだろうか。

                               (2023.02.01)

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