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前向きでポジティブなひとほど死に至る病 ~うつ病や双極性障害~

ぼくは10年以上、パニック障害と双極性障害と付き合ってきている。とはいえ、パニック障害が本当にひどかったのは2007年の頃で、その頃は家から徒歩10分圏内から出ることはできなかった。当時はデプロメールというSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)、簡単に言えば新型抗うつ剤を処方され、それを毎日200mg飲んでいた。うつ病の最大処方量は150mgと日本では定められているので、それを遥かに超えた量を飲み(うつ病以外の症例によっては150mg以上可となっている)、なんとか生き延びていた。それ以外にも抗不安薬のデパス0.5mgを1日3錠、レキソタン5mgを1日2錠飲み、通院時など電車を使う時はさらに抗不安薬の量を増やし、発作が起きないようにしていた。

日がな一日、練馬の安マンションの中、飯食って(徒歩5分以内にセブンイレブンがあったから買いにいけた)、うんこしてシャワー浴びて寝る。そんな毎日。

それまで活発的にドルヲタ活動をして日本中を飛び回っていた自分としては、当然、動き回れないこと、友達と遊びに行けないこと、とにかく「普通」のひとがやれることが一切できなくなったことが辛くてたまらなかった。さらに精神病のことを知るうちに、どうやら現代医学では精神病を100%治す方法はないということもわかった。この状態がもしかしたら一生続くのかもしれない。怖くなかったと言えば嘘になる。しかし、治す方法はなくても少しずつよくなるというのは多くの症例や似たような人たちのことを知ることでわかってきた。たとえそれが何年かかろうとも。。

そこでぼくが取った方法は、「いつか絶対に良くなるから、それを目標に頑張って様々な治療をして行こう!」と決めたわけでは全くなかった。

むしろ動けないことをいいことに、これまでほぼ触れ合ってこなかったアニメやゲームというジャンルにどっぷりハマってみたのだ。

「だって、頑張ってもよくなるかどうかわからないのに、頑張る必要ないじゃん。ただでさえ今辛いんだから、これ以上頑張るなんて無理無理。現状を受け入れて、現状で楽しめることをやる!」

明確にそう決めたわけではないが、ぼくはひたすらだらけた。根が真面目じゃないから、いくらでも怠けることはできた。勤勉さや努力などに微塵もプライドを持っていなかった。闘病生活としては全く美談にならない話だ笑

そしてタイミングが良かったのかもしれないが、当時は泣きゲーというジャンルが流行っていて、ヴィジュアルノベル(ギャルゲー)だとkeyというメーカーが出した『kanon』『AIR』『CLANNAD』『智代アフター』『リトルバスターズ』など、SRPGだとアクアプラスの『うたわれるもの』などをやり込んでは、泣きに泣きまくっていた。アニメも切ないラブストーリーが好きで、そういうものを好んで見ては泣いた。

自分はキャラ萌えの人間なので、主人公たちにやすやすと感情移入できるので、自分ひとりでは「泣く」という行為もなかなかできなかったのだが、泣きゲーのおかげでぼくは「泣く」ことがたくさんできた。そして、その涙を流した分だけ、投薬の量を減らしていくこともできたし、約半年で普通に動き回れるようになった。

これは投薬のおかげというより、毎日虚構のストーリーの中で感情を揺さぶられ「泣いた」ことで、様々な心理的ストレスが流されていったのだと自分では分析している。自分の現状を嘆く自己憐憫の「泣き」は胸がただ苦しくなることが多い。でも心が動かされることで「泣く」ことは意外と泣いた後スッキリする。薬で完治しないのは元々明らかなので、ならばそれが一番だろう。それができたのはひとえに頑張らずにだらだら過ごしていたからだ。がんばり屋だったら辛くて死んでいただろう。さらにひぐらしや東方を知ったことで、自分でも同人活動をしてみたくなり、クリエイティブなことに目を向けることができたのが大きい。

投薬も2年ほどで毎日飲む抗うつ剤のデプロメールを1日200mgから25mgまで落とすことができた。ただ、それでも気圧や季節の変わり目、あと急に動けなくなることはあり、やはり完全に治すことはできないんだなと思いつつ、それならそれでやっていこうとこれまで生きてきた。

そして今。約半年ほど諸事情で心にストレス負荷がかかっていて、今年の10月後半で完全に砕け散った。そして今度は双極性障害の症状が強く出てきてしまった。

双極性障害とは簡単に言えば躁うつ病なわけだけれど、ぼくはその病気では2型と言われる方で、躁の時でも買い物しまくったり謎の万能感が出てきたりとかはない。軽躁という感じで無駄にお喋りになったり、ひとの面倒をみようとしたりしてしまう。が、逆の抑うつ状態になると今度は全く動けなくなる。パニック障害みたいな発作が起きるわけではなく、脳から動けという司令がでているはずなのに、手足は動かない。そんな感じ。これが交互にやってくるので、心身ともに疲れやすいという面もある。

今は抗うつ剤をSSRIからSNRI(セロトニン・ノルアドレナリン再取り込み阻害薬)のサインバルタ20mgカプセルを1日限界量の3錠飲んでいる。先日、見舞いにやってきた親が現状のぼくを見て「入院すべきではないか?」と言ってきた。

たしかにそれもひとつの手ではあるが、2007年当時のことを思い返しても、ひたすらだらけてアニメやゲームを見て泣いていたのが功を奏した。下手に治そう治そうと病気のことばかり考えていると不安になってきてしまうので、今も友達と話していて泣きそうになったら、もう40歳のおっさんだけど男らしさのかけらもなく泣かせてもらうし(笑)、アニメ見てまた泣いたりしている。発作的な「泣き」ではなく、感情を揺さぶられての「泣き」はかなりメンタルに良いと経験上、わかっている。だから今も無理をせずにそこそこだらけながら、切ないストーリーを見ては「泣い」ている。

今度はいつぐらいに寛解する(精神病が良くなること)のか。半年後か。1年後か。もっとかかるのか。はっきり言ってわからない。

「人生は有限だ。だから1秒1秒を大切に生きなければいけない」

とよく言われることだが、こと精神病に限ってはこれは劇薬な言葉である。清水有高さんという一月万冊というYouTube配信をされていた、会社社長でありコーチングを学んで何億と稼いで自信満々な方がいたのだが、そこの社員さんが自死されたり、その他どういうことがあったのか部外者のぼくにはよくわからないが、そんな方が最近うつ病になって何度も自殺しようとしたことをこのエントリで告白している。

私はうつ状態で苦しくてネガティブな事ばかり考える負のスパイラルを良くしたいと思いました。これがが目的であって、そのための手段の一つとしてコーチングを試したけど上手く行きませんでした。もし、ここで私が手段にこだわっていたら?もっと辛くなっていたかもしれません。良くなる事、幸せになる事が目的ならコーチングという手段にこだわる必要は無い。こんな風に私が思ったきっかけは、うつ病になってとても辛くて(48時間寝れないとか)自分が治りたくて色々とうつ病関係の本を300冊ほど読んだ時の気づきがあります。その気づきとは現代の医学・科学の限界です。精神病の本を沢山読んだ結果、現代医学ではうつ病を100%治す方法はないという事がわかりました。100人うつ病になったらそれぞれにうつ病になった背景があり、苦しみがあります。うつ病になった原因は人それぞれです。心という現象はとても複雑で、現代の科学・医学では全て解明できていません。だから「こうすれば万人が必ず良くなる方法」というのは存在してないのです。これを知ったときに私は絶望しました。自分の病気は治るかどうかわからない。この苦しみが一生続く可能性もある。うつ状態に陥ってるときに、なんとかそれを解決しようともがき苦しんで読書した結果、待っていたのは現代の医学・科学の限界でした。私はこれを否定したかった。私は問題があるなら正しいアプローチをすれば解決するはずだ、と信じていました。それで沢山本を読みました。その結論が「良くなるかもしれないし、良くならないかもしれない。人による。症状による。ケースバイケースです」という事だった時の絶望感。私は辛すぎて死のうと思いました。おそらく、殆どの人はうつ状態でそんなに読みません。辛いまま精神科医、心療内科医にいくのだと思います。ただ、私はよくも悪くも沢山読みたい人だったので勝手に絶望してしまいました。しかし、その時に私はこう思いました。「限界がそこにあるならそれを受け入れて最善を尽くすしかない」という事です。私はこの考えを受け入れるのが嫌でした。なぜなら私は限界は超えていくものであり、問題は解決できるものだと信じていたからです。ただ、ズタズタになった私の心はそのように考えるエネルギーを持っていませんでした。私は今までの考え方を捨てて「良くなるかもしれないし、良くならないかもしれない」というものに身を委ねることにしました。以前の私なら「絶対よくなるという確信を持つ!」と思ったはずですがそれは当時の私には無理でした(この考え方自体が非常にコーチング的です)。もし、私が無理をしてその確信を持とうとしたら、辛すぎる心が悲鳴をあげて死んでいたと思います。世の中には絶対は存在しないし、現代の医学・科学には限界があるなら最善は尽くすが自然の流れに委ねるしかない。まさに人事を尽くして天命を待つという感じです。

ここに書かれている通り、「限界はチャレンジして突破するもの!」と考え、行動することは精神病では逆によくないことが多い。いや、むしろ病気を悪化させかねない。この方も頑張らない方法を取って少しずつ治していったとこの後書いている。

「人事を尽くして天命を待つ」というのがそもそも精神病ではよくない。この「人事を尽くして天命を待つ」とは儒学の教えで、「自分の全力をかけて努力をしたら、その後は静かに天命に任せる」ことを言う。はっきり言うと、前向きに全力で努力しようとする姿勢はメンタルヘルスではやっては駄目な行為だ。そういう努力を美学と捉えているひとほど、あっさり自殺してしまう。それほどまでに努力やポジティブさは劇薬なのだ。

儒教の教えとは逆の思想に老荘思想(道教)というものがある。老子の「無為自然」や「上善水の如し」といった教えだ。一切をあるがままに受け入れること。自然の動きに身を任せる柔らかくしなやかな水は、環境に合わせて自分の形を変える。しかも、時には岩のように頑丈で重いものを動かす力も秘めていること。

だから最近はそんな老荘思想をキメながら、やっぱりできないことはあるがままに受け入れて、感情のおもむくまま泣きまくるのもいいものだなと思っている。ここのところは『CLANNAD』を京アニがアニメ化したものを見てまたも泣いている笑

そして、まわりのひとはゼロ年代作品って「ふんっ、セカイ系でしょ」と素通りしがちだが、メンタルには泣きゲーはいいぞと声を大にして言いたい笑

キャラ萌えできないひとにはあまり勧められんが。。別に泣きゲーじゃなくても泣ける映画とかでもいいけど、とりあえず心のもやもやを洗い流す浄化の涙を流してくれる作品は素晴らしいと思う。

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