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第19回 栗原遺跡と古代農民

1,栗原遺跡について

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 栗原遺跡は、板橋区と練馬区の境にある城北中央公園の敷地内にある遺跡。写真のように、竪穴住居があるのが目印です。

 昭和30年に立教学院総合運動場を造る際発掘調査されました。遺跡の名前にある「栗原」という地名は、近辺の小字に由来しているのだとか。

 遺跡からは黒曜石の石器をはじめとして、縄文土器や弥生~平安時代の住居跡が出土しています。

 石神井川と田柄川に挟まれているため、水や食べる魚には困りません。おまけに日あたりもよく、木の実もたくさん獲れたことから、長い間人が生活していた土地だったようです。

 ちなみに画像の竪穴住居は奈良時代のもの。

「えっ、奈良時代に竪穴住居? ありえないよ」

 と笑った方、調べてみてください。平安時代まで、一般庶民は竪穴住居に住んでいました。


2,貧窮問答歌と奈良平安の農民

 風雑り 雨降る夜の 雨雑り 雪降る夜は 術もなく 寒くしあれば 堅塩を 取りつづしろひ 糟湯酒 うち啜ろひて 咳かひ 鼻びしびしに しかとあらぬ 鬚かき撫でて 我を措きて 人は在らじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾 引き被り 布肩衣 有りのことごと 服襲へども 寒き夜すらを 我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒からむ 妻子どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ この時は 如何にしつつか 汝が世は渡る 天地は 広しといへど 吾が為は 狭くやなりぬる 日月は 明しといへど 吾が為は 照りや給はぬ 人皆か 吾のみや然る わくらばに 人とはあるを 人並に 吾も作れるを 綿も無き 布肩衣の 海松の如 わわけさがれる 襤褸のみ 肩にうち懸け 伏廬の 曲廬の内に 直土に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲み居て 憂へ吟ひ 竈には 火気ふき立てず 甑には 蜘蛛の巣懸きて 飯炊く 事も忘れて 鵼鳥の 呻吟ひ居るに いとのきて 短き物を 端截ると 云へるが如く 楚取る 里長が声は 寝屋戸まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり 術無きものか 世間の道(山上憶良『万葉集』巻5―892) 

 これは日本初の勅撰和歌集『万葉集』に収められた山上憶良の長歌。当時の農民の窮乏ぶりを歌ったものです。

 雨風や雪の日を耐え忍ぶ方法が無い、食べるものが無い、だけど里長が税の取り立てに来る。読んでいるだけでも胸が痛みますね。

 この貧困問題に関して、朝廷は何か対策を取っていたのかと言えばとっていました(悲田院、施薬院などの救済施設の設置)。ですが、現代の生活保護問題と同じで、支援になかなか繋がりにくかったのが実情かと考えられます。また、福祉貸付制度の原型公出挙(くすいこ)は、稲をあげる替わりに収穫の3~5割を税金として納めねばならないという狂気の制度でした。

 貧困に悩んでいた庶民は、6年ごとに改正される戸籍に、本来男が3人のところを女2人として届け出たり、夜逃げもしていたりしたようです。

 平安時代になっても農民は虐げられていました。

 里長の次は「国司」にいじめられます。

 国司とは、今の県知事に相当する官職。決まった年数に一度京都から派遣されてきます。

 直接現地に向かうことはなく、「目代」という代理人を立てて行く人が多かったようです。

 現地に直接行く人は、地方でしこたま儲けてやろうという魂胆しかなかったようで、『今昔物語集』における「欲深信濃守」の話が、当時の国司の性格をよく表しています。

 利益目的なので、「ブラック企業」ならぬ「ブラック国司」も出てきます。

 尾張では藤原元命という人物が盗賊まがいのことをしたり、ぼったくりレベルの税金や貢ぎ物を科したりしたことから、現地民と郡司(現在の市長に値する位。土着している豪族が務めた)が太政官に訴え出た記録が残っています。

 また、武蔵国では、京都から派遣された源経基と興世王が「視察」と称して現地民をいじめて、足立郡司の武蔵竹芝を困らせた話があります。幸い平将門が解決寸前まで持ち込みましたが、竹芝の兵が興世王の屋敷を襲ったことで水の泡になりました。

 上のものに農民がいじめられ続ける風潮は、室町時代に「日本初の土民蜂起」と記された正長の土一揆が起こるまで数百年続くことになるのです。


【参考文献】

練馬区『栗原遺跡の竪穴住居跡 (くりはらいせきのたてあなじゅうきょあと)』(https://www.city.nerima.tokyo.jp/kankomoyoshi/annai/rekishiwoshiru/rekishibunkazai/bunkazai/b046.html)

浜島書店編集部『日本史重要史料集』

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