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生きた心地のしなかった約1ヶ月(最後の時)

こんばんは、MAPです。

今回は妻が入院して亡くなるまでについて振り返ってみようと思います。


変化のない日々

医師から余命2週間〜1ヶ月の宣告を受けていたことから、毎日面会時間の開始から夕食までの時間はお見舞いに行っていました。

時々妻の友人や知人の方がお見舞いに来てくれたりしていました。
自分は病室につくと、妻が好きだった藤井風の曲をかけて、意識のない妻に日常生活の会話をしたり、友人からもらったハンドクリームを塗ってあげたり、ネイルケアしてみたり、手紙を読んでみたり、手を握って語りかけていたりしていました。

また、生命維持に大事な、心拍数、呼吸、脈拍などの数字は毎日のように確認して異常がないかと思うのでした。

たまに、妻の足に反射が起きて動いたりすることに最初の頃は意識があるのではないかと期待することもありましたが、医師からの説明では反射は意識とは関係なく起こるものとして説明を受け、次第に反射に対しても何にも感じなくなってしまいました。

心臓が動いて、悪化している様子もないことから、何かしら期待してしまうところはあるのですが、変化のない日々がただただ続くのでした。

見守るだけで、何も出来ない自分の不甲斐なさに苛立ちや失望感を感じながら、日々肉体的にも精神的にも削られていきました。

それでも、自分が体調を崩す訳にはいかないので、何とか気を強く保ちながら仕事はしつつ日常生活を送っていました。

余命期間を超える可能性

そうこうしているうちに、もしかしたら1ヶ月を超えるかもしれないという時期に差し掛かりました。主治医と話した時も心拍数、呼吸、脈拍などの数値は安定しており、余命が長くなる可能性についても話がありました。

そうなると、再び期待を持ってしまう自分がいました。
医師の経験値からくる判断を超えて、命が続くのであれば何かしら奇跡が起こるのではないかと。

ところが、その数日後に徐々に変化が起こってくるのでした。
まずは、呼吸の数値が安定しなくなりました。標準の数値を度々下回ってしまい、生命維持装置のアラーム音が鳴り看護師の方が駆けつけて処置をするという回数が徐々に増えてきました。

ここからは状態の悪化が早かった。
医師の話では、投薬でなんとか身体のバランスを保っていたが、一度それが崩れ始めると戻すことが難しいとのことで、今まで全く鳴っていなかったアラーム音が毎日のようにように鳴っていきました。

そして恐れていた一言が主治医からありました。
「ご家族の方を病院に呼んで下さい」と・・・

動揺しながら、子どもたちは最後の時をどう過ごさせるか?と考えましたが、最後の時がいつくるか(夕方なのか夜なのか、または深夜なのか?)わからなかったことと、最後の瞬間を目の当たりにするのはあまりにショッキングな出来事になってしまうのではないかと、近所の仲良いご家族に事情を説明してお泊まりで預かってもらうことにしました。

そうは言っても、昼過ぎには一度最後のお見舞いをさせようと子どもたちを病院まで呼び寄せて、妻との面会をさせました。

身体的には大きな変化はないため、おそらく子どもたちには実感はなかったのだと思います。30分程度の面会を済ませて近所のご家族の家に戻りました。

私と義理の両親は泊まりの準備をして、じっとその時が来るまで妻と一緒にいました。

最後の瞬間

亡くなる前日の夕方以降ずっとアラームがなり続けて、もはや気が気でありませんでした。それでもなんとか生命を維持しながら妻も頑張っていたのだと思います。

夜になると心臓の鼓動も弱くなり始めて、心拍をあげる投薬もどんどんと増やしていきます。ただ、増やすのも限界があり、医師からはどこまで増やしますか?と聞かれ、一般的な範囲で対応いただくように依頼しました。

過度な延命措置をしたところで、助かる見込みがないのであれば身体に負荷をかけ過ぎるのもどうかと思っての判断でした。

深夜を超えて、アラーム音ももはや聞き慣れてしまい、あまり気にならなくなるほどでした。看護師さんも30分おきくらいに病室に来るようになり、だんだんと慌ただしくなっていきます。

一方で、時間が時間だけに義理の両親には仮眠を取ってもらい、自分も少しうとうととしながら、妻へ最後の言葉となるような話を度々していました。

その言葉は割愛しますが、「今までありがとう」というようなことを何度も伝えていました。

そして、少し外が明るくなってきた早朝6:10頃にアラームが今まで以上に激しく鳴り響き、ついに鼓動が止まりました。その直後にアラーム音も鳴り止み、妻の身体の血の気がスッと引いていくのがわかりました。
もうダメだ、妻の命が尽きたのだと・・・。
大量の涙が溢れ出て止まりませんでした。

そして主治医が来て、朝6:21にご臨終となったのでした。

この時点での自分の気持ち

長く苦しい1ヶ月でした。
生きた心地もせず、自分はなんのために生きているのかすら分からなくなりました。
奇跡を期待しつつ、それがないことも理解しつつと気持ちの上がり下がりもありました。
それでも、最後まで妻のことを見守り続けたという自負はあります。
このことが、自分が立ち直るためにすごく重要な要素だったことは、その後に気が付くのでした。

次回は、「葬式」の話を書きたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

MAP

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