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音と

 机を叩けば音がする。キーボードを叩けば音がする。鍵盤を叩けば音がする。髪の毛をただすとき、スマホを開くとき、水筒を飲むとき、必ず音がする。

 僕は、たびたび音楽を聴く。

 僕は一時期、ベートーベンの交響曲第九番を狂ったように熱心に聴いていた。通称『第九』だ。毎年大晦日に、Eテレで流れる第九を聴いていた我が家は、音楽大好き一家である。父は幼い頃からずっとピアノを弾き続け、今でも弾いている。母はあまり楽器はやっていなかったが、ピアノ曲を中心にいろんな曲を知っている。その血を引いた僕も、やはり音楽が好きで、頭の中で、ふとした瞬間に音楽が流れ出すことがしばしばある。去年の大晦日も例によって例のごとく第九を聴き、母は我が家に第九のCDがなかった事に気づいて、アマゾンでカラヤンの第九を即決で購入した。僕はその後、ウォークマンに取り込み、何度も繰り返し聴いているうちに、他の指揮者の第九も聴きたいと思い、バーンスタインとウィーンフィルが演奏したものと、小澤征爾とサイトウ・キネン・オーケストラが演奏したものを購入し、この三つを聴き比べしている(敬称略)。繰り返し聴くほどに、三つの相違点が見えてきて、面白いものである。
 僕は、こんな感じに音楽を聴いている。

 僕は、毎日音楽を聞く。
 僕らは毎日、無意識のうちにあらゆる情報を耳でキャッチしている。体を動かせば音が鳴る。声帯を震わせれば、音が鳴る。歩けば、靴の音がする。雨が降れば、雨粒が地面にぶつかる音がする。傘にポツポツと落ちてくる音がする。僕は雨の音が好きだ。雨粒がぶつかるのは、アスファルトだけでなく、草地にぶつかることもあれば、水たまりにぶつかることもある。そしてそれらは異なる音を鳴らす。また、雨粒がぶつかるのはなにも地面だけではない。家の屋根にぶつかり、バケツにぶつかり、僕にぶつかる。毎回違う音を鳴らしながら。雨には音楽が伴っている。雨は音楽を奏でている。小気味よい音を鳴らし、優雅に、紳士的に音楽を奏でている。そんな音を僕らは、無意識のうちにキャッチしている。しかし僕らはそれを音楽だと思っていない。風が通り抜ける音も、葉がこすれる音も、川が流れる音も、音楽だとは思っていない。こんなにも世界は音楽にあふれているのに、世界はこれほどまでに壮大な音楽を奏でているのに、僕らはそれに耳を傾けていない。ただ聞いている。
僕は、こんな感じに音楽を聞いている。

 そして僕は、音楽に訊く。
 音楽にあふれた世界で、僕は音楽から何を受け取るのだろう。何を奪うのだろう。
 音楽には、人々に元気を与える力がある。僕は音楽に何度救われたことかわからない。おそらく両手に加えて両足を動員させても、数える気すら起きないほどに救われている。世界にいる人間の両手を借りても数え切れないほどかもしれない。好きな人から一日経っても、二日経ってもLINEの返信がないとき、課題が終わっていないとき、期末試験が迫っているとき、僕の今にも灰と化しそうな心をなんとかつなぎ止めてくれたのは、いつも音楽だった。僕は音楽に依存している。
 僕は音楽に何を返してあげられるのだろう。こんなにも幾度となく僕を救ってくれた音楽に、僕は何か恩返しをしてあげたい。僕を幸せな気持ちにしてくれた人にはお礼を言って、僕にできることなら何でもしてあげたい。そんな気持ちを、僕は音楽に対しても抱いている。
 しかし音楽は、その答えを教えてはくれない。持ち合わせていないのかもしれない。ただ慎ましく、今も音楽を奏でている。
 僕がこの世界に生まれて良かったと心の底から思えることは、音楽のある世界に生まれてこられたことだ。そして、音楽の素晴らしさを語り合える家族や友人がたくさんいることだ。この世界から音楽が消えたとき、僕は何が何でも死んでやる。なぜなら僕は、音楽に依存しているのだから。僕はこれからも、大好きな音とともに、笑いながら生きていく。

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