きりんは首を戦わせる

 きりんはその長い首を振り回し、ぶつけあって喧嘩をする。これにはネッキングという名前がついており、きりんのオス同士が互いの優劣を競うために行うそうである。あまりにそれが激しくなると、首の骨が折れて死んでしまうこともある。きりんは木刀を手に取る代わりに、己の長い首を使って鍔迫り合いをするのである。

 きりんの首は、元々は木の高いところに生えている葉を食べるために長くなったものであろう(厳密にいえば、たまたま生まれた首の長い個体が木の高いところにある葉を食べられるというそのメリットによって生き残り、他の首の短い個体が淘汰され、結果的にこれほどに首の長い「きりん」という種が確立されたというのが正しい)。それをもって喧嘩をするために長くなったのではあるまい。しかし、実際にそれを振り回してみるとどうだろう。からだを直接ぶつけあうより、重量があって長いものを振り回した方が、遠心力やらテコの原理やらの関係で、より弱い力で・より威力の高い攻撃を繰り出すことができる。歴史上のどこかであるきりんがそれに気づき、そうやって己の長い首を生かした戦い方ができる個体がそうでない個体を淘汰し、そして世にあるきりんはネッキングを行うものばかりとなったのである。

 思えば人間がやっているのも同じことである。日本人は日本刀を振り回すし、ヨーロッパでもサーベルやらレイピアやら(ヨーロッパの剣術は「突き」の技法らしいので少し違うのかもしれないが)があり、中国には環首刀・柳葉刀といったものがある。いや、剣や刀にまで行かずとも、棍棒という武器はそれこそ先史時代から世界中どこでも見られるだろう。剣や刀が加工・作製にそれなりの労力が必要なことを考えれば、棍棒の方がより手に入れやすく使いやすい武器であった、そのために古今東西の戦争で棍棒が大いに使われたであろうことも想像に難くない。子供だって持ちやすい木の枝と友達が両方そろえば、その木の枝を互いに戦わせるだろう。からだを直接ぶつけあうより、重量があって長いものを振り回した方が、遠心力やらテコの原理やらの関係で、より弱い力で・より威力の高い攻撃を繰り出すことができるからである。我々は、きりんのように振り回せる長い首がない代わりに、長い獲物を手に取って鍔迫り合いをしているのだ。

 他人に攻撃を繰り出す、という文脈において、我々はきりんと同じ次元で発想している。同じ物理法則下で生きている限り、攻撃のためには長くて重量のあるものを振り回すのがもっとも合理的な方法なのだ。当たり前の話である。この「当たり前」はすごいことだと思う。我々も、きりんも、物理法則の前には、等しく無力な動物なのである。我々動物は、物理法則の軛から逃れて活動することはできない。圧倒的だと思う。すごい。
 棍棒も刀剣もきりんの首も、振り回して攻撃すれば、時には相手を殺すことさえできる。単純かつ合理的な戦い方である。その合理性は、地球上のどこにおいても普遍的、文化どころか生態が違う動物同士の間にあっても通用するほど普遍的だ。我々が同じ物理法則に縛られている限り。


 かつて一番最初に首を振り回したあるきりん、かつて一番最初に木の枝を振り回したある人類。お前らはどっちも合理性を追い求めた果てに「当たり前」に行き着いたのだよ。 

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