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「やりたいことリスト」は本当にやりたいことか

きっかけは忘れてしまったが、
何年か前に「死ぬまでにやりたいことリスト100」を書き出してみたことがある。
大きいことでも小さいことでも、どんなことでもいい。
とにかく100個、思いつくままに書くこと。
こう言われてさっそく書き始めたものの、
全然筆が進まなかった。
捻り出すようになんとか書いた。
何日かかってもいいということで、たしか数日間取り組んだ記憶があるが、
結局書き出せたのは78個だった。
それを今、改めて読み返しているのだが、
なんとも言えないどんよりとした気分になる。
世界一周旅行をしたい、とか、海のそばの家に住みたい、とか、
オーロラを見たい、とか、イルカと泳ぎたい、とか、
そういう類のことばかりが羅列されているのだ。
これらは、世間一般でよく聞かれるやりたいことだ。
それは果たして、当時私が本当にやりたいと願ったことだったのだろうか。
今になって思えば甚だ疑問に感じる。
リストの内容のほとんどが、
みんなに羨ましがられるようなものであったり、
その時の流行りのようなものであったり。
世間的にいう、キラキラしたもの。
何かとてつもない薄っぺらさを感じた。
自由になった気分で書き綴ったリストは、
真の自由だったのか。
自分でもよく分からない。

「自由」とはなんだろう。
自分の好きなところへ行けること?
言いたいことを言えること?
でも、自分が好きだと思っている場所は、
本当に自分の行きたいところなのだろうか。
言いたいことは、心の底から思っていることなのだろうか。
実は世間に煽動されたものなんじゃないか。
そう考えたら、この社会で生きている限り、
「自由意思」なんてそもそも存在しないんじゃないだろうか。
自分で決めているつもりでいても、
この世界はプロパガンダに巧みに誘導されているものが大半なんだと思う。
そこには、はっきりとした境界線は存在せず、
どこまでが能動的な自由意思で、
どこからが受動的なプロパガンダによるものなのか
見分けることは、もはや不可能だ。
社会と強く濃い繋がりを持って生活するということは、
便利さと引き換えに、自由意思を捧げなければならない。
自由意思を追求しようとすれば、便利さを享受することはできない。
小さな箱庭のような限られた世界の中で、
さも自由を獲得したようなつもりになって生きているだけなのかもしれない。

「死ぬまでにやりたいこと」
私は今、ひとつも思いつかない。
今この瞬間にやりたいことはあっても、
「死ぬまでに」やりたいことは特に思いつかない。
それは、欲を忘れてしまったのか、
それとも、やりたいと思った時点ですぐに消化しているからなのか、
ただただ難しく考えすぎているだけなのか、
本当によく分からないのだ。

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