見出し画像

私のささやかな美徳

家のそばにコンビニがあり、車が10台ほど停められる専用の駐車場がある。
昨日の昼間、立ち寄ると駐車場が満車だった。
入ろうとしたのに停車できず、
諦めて走り去る車もいる。
すごく繁盛しているなと店内に入ると
客は二人しかいなかった。
ということは、駐車場に停まっている車はほぼ無断駐車だということか。
買い物を済ませて店を出ると、
店長さんが無断駐車のチェックをしていた。
声をかけるとほとほと困り果てている様子だった。
ここは駅が近いこともあり、
近所にはコインパーキングなどの有料駐車場が潤沢に点在している。
そして、どこも程よくそこそこ空車になっている。
料金設定も30分100円くらいである。
この近辺で用事のある人はそれらを利用すればなんの問題もない。
にもかかわらず、コンビニの駐車場は無断駐車でいっぱいになっている。

そのコンビニをよく利用するという近所の知り合いがいる。
その人は時々、お店の人の了解を得て長時間駐車するのだという。
彼女の言い分はこうだ。
「毎日たくさん買い物しているんだから、このくらいしたってバチは当たらないよ」
こう言い放つ彼女の顔は、なぜかどこか得意げだ。
この何気ないひと言からその人となりが垣間見えたようで、
私は思わず身をすくませる。
はっきり言って、私はこういう考え方が好きではない。
それは思考のすり替えじゃないの、屁理屈なんじゃないの、と思ってしまう。
なんだか善意の詐取・搾取をしているように見えてしまうのである。
そして、そういう長時間駐車が別の無断駐車を誘発している。
そのことに、彼女は気づいているんだろうか。
自分の何気ない行いが営業妨害につながっていることに気づいているんだろうか。

また別のある人は、遊びに行ったら近所のスーパーに車を駐車するように指示してくる。
みんな停めているし、絶対にバレないから、と。
今まで誰も怒られたことないから、と。

でも、私はそういった行為にとてつもない違和感を覚える。
バレなければ、怒られなければ、何をやってもいいの?と。
私にはできない。
コインパーキングを探して、ちゃんと対価を払って堂々と停めたい。

私の気が小さいとかそんなことでない。
また、物事を正しい、間違っている、だけで判断するような、杓子定規の思考とも少し違う。
私はただ、自分がされて嫌だと思うことは、人にしてはいけないと思うのだ。
これは絶対に譲れない、私のささやかな美徳である。

お店が準備している駐車場は、商品を購入するために来てくれるお客さんのために準備しているものだ。
そこからズレた用途で半ば強引に利用することは、商売の邪魔をするのと同じことで、自分がされたら許し難い行為だろう。

近所の知り合いが言った、「バチは当たらない」。
本当にそうだろうか。
因果の法則からすれば、いつかバチは当たるだろう。
だって、自分がされて嫌なことを相手にしてしまっているのだから。
これが起因となるのなら、相応の結果は必ず生ずる。
また彼らは、駐車料金というお金の価値の側面だけに目を向けて、
損得勘定をして得をしたと思っているのかもしれないが、
それだと大きな見誤りをしている。
駐車料金の代償に、品性という大きな価値を失ったのだ。
そして、それを取り返すことは並大抵のことではない。
また、「バチ」という言葉を使うこと自体、
自身にもどこか後ろめたさを抱えているという自覚があるのかもしれない。

私は、そういう人を諌めたりするつもりなど毛頭ない。
そんなおこがましいことをする気はさらさらない。
けれども、こういう価値観を持つ人と分かり合えるとは到底思えないし、
信用できないからそっと離れる。

私は、自分自身に後ろめたさを感じるのはまっぴらごめんである。
せめて己に恥じることなく、清廉潔白に清々しく生きていきたいものだと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?