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クラシック音楽は時としてファンキー、そして過剰

今日は私には珍しくクラシック音楽を聴きながら酒を飲んでいる。
アルゲリッチが弾くシューマンのピアノ協奏曲。
その後、ハスキルが弾く同じ曲を聴いた。

私は専門家ではないので感覚的にしか語れないのだが、
何このファンキーなオバさん達!
かっこいいじゃないか。

譜面に対する解釈は演奏する人の数だけ存在するのだろうが、その解釈によって、元の譜面にはなかった過剰な何かがプラスされ、演奏内容に独自の強度が生まれてくるのだろう。

音楽に限らないが、たぶん全ての解釈は優劣に関係なく、余分で過剰なものを生み出してしまう。

普段の生活の中に現れる際立つ何か、それらはすべて過剰なものだ。
たとえ優れていたとしても、その過剰なものは本来必要なものなのかと問われたら、個人的には必要ないものだと答える。
もし可能ならば、そういうものがない世界で生きていきたい。
そのことについては、これ以上書くと身も蓋もない話になるので控えるが。

ともかく、この世界は過剰なもので満ちている。
それらをすべて感知していたら身が持たないけれど、どうせこの世界で生きるのならば、素通りしようとしてもできないものがあったとき、少し立ち止まる程度の余裕は持ちたいと思っている。

そういう出会いが自分にとっての救いになるかもしれないし。

たまたま立ち止まる余裕があったから、アルゲリッチやハスキルを知ることができた。

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