見出し画像

おにさんはこちら

喜怒哀楽の中で、今も圧倒的に扱いが下手なのは怒だ。
そもそも、怒るにはとてもエネルギーが要る。たとえ内に秘めた静かな怒りであっても、気付いたら少しぐったりしている自分がいる。
気力も体力も奪われる行為なので、できれば本当にやむを得ない時にしか怒りたくはない。
大抵のことはよくもわるくも流していける。

ただ、責任が絡むとそうも言ってはいられない。たとえば、時間や納期。
危機管理や命に関わってくること。
最低限の倫理や生活習慣。
一個人として、社会人として、親として、最低限守るべきラインはある。当事者として看過できない場面には、怒りをもって抗議することも必要だろう。

子ども同士のけんかもまた、まっすぐ感情をぶつけ合う中での学びがあり、意義のある怒りだ。どんなことをされたらいやなのか、相手はどこがいやだったのか。
大人から聞かされる言葉よりも、その温度手ざわりを確かめながら得る生の怒りの方が、よほど説得力がある。


大人になって、誰かに怒られることはほとんどなくなった。感受性が豊かでエネルギーが有り余ってる人やクレーマーはさておき、大人の世界ではある程度みなが取り繕うようになるため、むき出しの怒りと鉢合わせる機会はそう多くない。
なにかと大人は疲れている。怒りに注ぐエネルギーがあるなら、発電にでもまわしてほしい。

母になって、私は再び怒りが身近になった。

子どもからくるストレートな怒りの感情。
ただ弱弱しく不快を訴え泣くだけだった赤子が、次第に笑うようになり、悲しむようになる。
自身も産後数ヶ月は寝不足とホルモンの影響でイライラする日々は続いたが、小さな赤子への責任感と赤子の暖かさと匂いに支えられて乗り切った。
そして、1歳半から始まった“イヤイヤ期”。全身からほとばしるほどの熱量での「いや!ちがう!それじゃない!」。(発電したい…)
言語力が伸びてくると少しおさまったが、まだまだ気持ちの折り合いのつけ方を学んでいる最中のようだ。


私の現在はというと、子どもたちに予定時間までに行動してもらうため、どのように声かけしていくかを試行錯誤している。
いや、眠たいのもわかる。大人には一見無駄にみえるぼーっとしている時間も、子どもの脳には必要な時間というのも把握している。
しかし仕事の始業時間も、園の時間も決まっているのだ。ゆっくりしていて迫ってきた時間には、帳尻合わせが必要だ。
朝一番には穏やかに子どもたちに告げていた時間や状況説明も、幾度となく反故にされるたび、もどかしさでいっぱいになる。
ああ、なぜ伝わらないんだ!
どうしてわかってくれないんだ!
冬場の暖房代すらまかなえそうな、母のイヤイヤ白熱期。仕方がない。母としての私もまた、子どもと同い年なのだ。


怒りを抑えて努めて冷静に話そうとすると、どうも理詰めになってしまう。
かといって、親も人間だと開き直って率直に伝えようものなら、本当に同じ土俵立ってしまい、なんなら親であるというだけで威圧感を与えてしまって伝わらない。
ちがう。もっと私はひょうきんでいたい。
幼い子どもに大事なことを伝えるには、怒りが先走ってはいけない。子育てを窮地を救うのは、ユーモアだと本気で思っている。
無論、ユーモアは大人の間でも必要だが。


過熱しすぎた頭を冷やす、自己嫌悪。
まっすぐに子どもを見つめてみる。かわいい。とてもかわいい。自分から出てきたとは思えないくらい、ひたすらにかわいい。
そんなに責め立てる必要ってあったんだっけ。
自分の顔も見つめ直してみる。限りなく般若に近い。
鏡で見たくないものワーストスリーには入る。
(同着で酒に酔った自分、自分に酔った自分)
節分も近いことだし、園に現れる“おにさん”くらいが丁度いいな。子どもたちに苦言を呈しながらも、実は、一緒に遊びたかったんだってやつ。

心に一時待避所を設ける。おにさんはこちら。
一旦そこで足を崩してお茶でも飲んでもらって、行き先を考える。やっぱり出ていったほうがいいかな。それとも今日のところはお引き取り願おうか。
まだまだ先は長い。焦らずにいきたい。

この記事が参加している募集

この経験に学べ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?