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映画『ボーはおそれている』感想 悔しいくらいに共感だけはしてしまう179分

※ネタバレを含みます

悪夢のような最新作

 映画『ボーはおそれている』は、『ヘレディタリー/継承』『ミッドサマー』で注目を集めたアリ・アスター監督の長編映画3作目。主演はホアキン・フェニックス。前二作は強烈なインパクトを残すホラー作品なのに対し、本作は純粋なホラーと言う訳ではない。どちらかと言えばコメディ作品なのだが、ハッピーで明るいお話なんかではない。いじわるで複雑だけどたまにバカみたいなシーンがはさまる。悪夢を見ているような気分になる作品だ。


 ボー・ワッサーマンは、いつも不安にさいなまれている。ある日、さっきまで電話で話していた母親・モナが突如亡くなったことを知らされる。ボーは実家に帰ろうとするがその道中、さまざまな不思議な出来事に遭遇する。それは史上最悪な里帰りとなる。


オープニングから「おそれている」

 映画が始まると真っ暗な画面から音だけが聞こえる。障害物にはばまれているのか、何の音かは分からない。だんだんとその音がはっきりしてきて、女性の悲鳴のように聞こえてくる。となりの部屋で女性が乱暴でもされているのか。ものすごく不安で嫌な気分になる。すると画面が白く明るくなるが、ここがどこなのかははっきりしない。目が覚めたような感覚。すると女性の叫び声が聞こえてくる。「先生が赤ちゃんを落とした」。「息をしていない」。どうやら、出産のシーンらしい。赤ちゃん視点でお産の場面を見せられていたようだ。さっきの悲鳴はお母さんの「いきみ」だろう。お母さんが先生から赤ちゃんを奪う。蘇生させるため赤ちゃんの背中を思い切り叩く。ボーの誕生である。
 見たことのないモノを見せてくれるのが、良い映画というものである。赤ちゃん視点の出産シーンなんて見たことがない。それだけで映画料金の元を取ったようなものである。
 良き事とされている誕生の瞬間をアリ・アスターのフィルターを通すとなんとストレスなことか。産道で聞くあの悲鳴の様ないきみ声の不快さと恐怖感。ボーは誕生の瞬間からもうおそれている。

理解不能なこの映画の楽しみ方

 話の大筋は単純で、主人公のボーが実家に帰るだけである。しかし、その道中さまざまな出来事に巻き込まれていく。その出来事がナンセンスで支離滅裂、完璧に理解することは難しい。
 例えば、ボーが実家の屋根裏部屋に行くと、大きな男性器の化け物に襲われる。しかもそのデカちんモンスターが実は・・・とか。唐突に来るバカみたいなシーンに驚き、笑ってしまう。しかし、なぜそうなのかと理解しながら鑑賞するのは難しい。観賞中に明確な因果を見つけることは不可能だろう。ただ、ひとつひとつの出来事に恐れを抱くボーの感情には共感できる。ストーリーを理解しようとするよりも、ボーの気持ちにドライブすると、この映画は楽しめる。

最初から運命は決まっている

 アリ・アスターは運命論者である。一作目の『ヘレディタリー/継承』では、一族にかけられた呪いから脱却するために足掻く主人公一家の悲劇を描いている。しかし、どれだけ足掻いても呪いからは逃れられず、最初から決まっていたかのように、最悪の展開へと進む。その一族に生まれた瞬間に運命は決まっているのだ。
 二作目の『ミッドサマー』は、北欧の村祭りに参加した大学生たちが、奇妙な風習に巻き込まれていく。大学生たちは村で悲劇的な運命をたどるのだが、作中に出てくる絵画がその後に何が起こるのかを予言している。彼らが村祭りに参加することさえも決まっていたかのように。
 今作ではボーが実家に帰るまでに出会った人々や出来事が、すべて母親の仕組んだことで、その死でさえも仕込みであると物語終盤に明かされる。大掛かりで意地の悪いドッキリのようなものであったのだ。ボーは母の手のひらの上で転がされていたことを思い知る。オープニングでボーを蘇生させたように、ボーの運命は初めから母の手が握っている。生殺与奪の権はボーにはない。アリ・アスター作品の主人公たちは、オープニングから「詰んでる」のである。

ユダヤ人あるある

 今作の主人公・ボー・ワッサーマンはユダヤ人という設定なのだが、母親の支配が異様に強いというのはユダヤ人あるあるなのだそうだ。アリ・アスターはラジオのインタビュー(TBSラジオ『アフター6ジャンクション2』2024年2月12日放送回より)で、
「逃れることのできない母親からの抑圧というユダヤ系の文化におけるひとつの典型」で「非常にユダヤ的な観念」であると話している。
 もちろんそれを大げさに映画化しているわけだが、
「多くのユダヤ人から“分かる”という感想が寄せられている」という。そして監督が「ユダヤ系でない人は困惑したみたいですね」と話す通り、日本人にはあまりなじみのない話なので興味深い。ただ、母親から逃れようとする精神は、ユダヤ系でなくても、多くの男の子が共感する部分ではないか。

そしてボーから漂う童貞感

 物語前半、ボーはロジャーとグレース夫妻の運転する車に轢かれてしまう。ロジャーが医者だったこともあり、夫妻の家で看病されたボーは大事には至らなかった。ボーは看病されている間、夫妻のティーンエイジャーの娘・トニの部屋で寝起きすることになる。部屋の壁にはK-POPアイドルのポスターが貼られ、中高生らしい可愛らしい小物やぬいぐるみに囲まれるボー。カラフルな柄のシーツの上で横になるボーは、まさに子供部屋おじさんである。しかし、そこまで強烈な違和感は感じない。それはボーの精神性の幼さを表しているように見える。母離れ出来ないことを表しているようだ。
 トニは嫌々ながら部屋をボーに明け渡し、自分はリビングのソファで寝起きすることになる。怪我をしていて同情の余地があるとはいえ、見ず知らずの中年男性に自分の部屋を貸すのは嫌だろう。夜中に目を覚ましたボーがリビングに行くと、ソファにいるトニと目が合う。そこでボーはトニに「提案」をする。「僕がソファで寝るから君は部屋に戻るかい?」と。トニは「ここでいい」と反抗期真っ只中の答えを返し、ボーは部屋に戻る。あぁ、なんて童貞感丸出しなんだボー。でも恥ずかしいくらいに気持ちは分かる。
 ボーは優しい。常に相手に選択肢を与える。「君の好きにしていい」と。だから絶対に自分から「決断」はしない。無理やりソファを奪い部屋に戻すような事はしない。あくまでも決断は相手にゆだねる。だから提案をするのだ。ズルいと思われるなんて少しも思いつかない。
 物語後半、実家にたどり着いたボーは初恋の相手・エレインと再会する。しかし、彼女と良いムードになっても、絶対に自分からはアプローチをかけない。状況的に両想いなのは確実なのに、帰ろうとする彼女を(少し残念そうではあるものの)ボーは引き留めたりはしない。異常なほど相手を尊重する。彼女は引き留めてほしいのに何も起こらない玄関口での変な間の会話(このシーン最高!)。そして、全てのお膳立てを整えて、彼女からキスをして下さる。無理やりでご都合主義的な展開に笑ってしまう。ただそこに少しのうらやましさを感じてしまう私自信の童貞力の高さたるや。(そして彼女とイイ仲になるが、それも母親のコントロール下にあったことがわかる爆笑トラウマシーンへと続く)
 ボーは自分から決断をしない。それはつまり決断に対する責任を負わないということだ。いや、「責任って何?」って感じかもしれない。だって童貞は相手への責任なんか負ったことないんだもの。
 観賞中、ボーを見て何度「私がいる!」と思ったことか。恥ずかしいような可笑しいような。ボーが「そう」なった原因は、母親の強い抑圧であることは間違いない。セックスまでコントロールされているのだから(笑)。
 母親という引力を引きはがせないと童貞感が強くなるという感覚は伝わるだろうか。マザコンとは違う。いつまでも安全な子宮の中にいるような。そこから自分の力で這い出ていかないといけない。けれども実際は取り上げてもらっている。最初からそうなのだ。ボーはいつまでも取り上げられるのを待っている。自分の責任で、決断して出ていくことはしない。
 子宮の引力を引きはがせない人間はどうなるのか。ボーはどうあっても引きはがせない運命にあった。実家の子供のころから使っている学習机に向かい、パソコンでこの文章を書きながら私は思う。ココから出ていかなくちゃダメぇ?

『ボーはおそれている』
2024年2月16日公開
監督・脚本 アリ・アスター
主演 ホアキン・フェニックス


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