連載小説 介護ごっこ(1)

 ベッドに横たわる花柄のムームーに目がくらんだ。蛍光灯の下では、ハイビスカスが悲しい花に見える。ハンガーがささったままでは、それは、がらんどうの布地。人に着られて初めて目を覚ますようだ。
 にぎやかなフリルの襟ぐり、大きくふくらんだちょうちん袖、そこから白塗りの顔とたくましい腕を出して、踊っていた祖母はまだ生きている。発表会で浴びたライトが毒消しになったんじゃないなんて、恵美も母も、ほうけたように、にこにこしている祖母を笑っていたが、あれが認知症の初期症状だったと気づいたのは、それからかなりあとになってからだった。
「恵美ちゃん、あんた今日は大学は?」
 ソファに座った祖母が、赤い唇を丸くしてタバコの煙を吐いた。
「だから、今は夏休みなの。それにあたしが行ってるのは大学じゃなくて、専門学校」恵美はわざとらしく咳をして、煙を手で払う。「ばあちゃん、タバコやめようよ」
 言ってどうにかなるものではないとは分かっている。けれど、やはり火の始末が心配だ。
祖母はお構いなしにふかし続けている。耳が遠いから、本当に聞こえないのか、自分に都合が悪いことは、聞こえないふりをしているのか、たぶん、都合が悪いことは、本当に聞こえないのだと恵美は思う。
「ばあちゃん、早く準備しようよ」
「あたし、どっか行くんやったかしら」
「今日はほら、おけいこ」
 恵美がベッドの上のムームーを指すと、
「あ」と言って眉を上げた。化粧はもう済ませている。首の色と顔の白さが全然違う。昔、海女をやっていたころの日焼けが、なかなか戻らないと、鏡を前にして嘆く祖母は、孫の恵美から見ても、ちょっとかわいい。
 恵美が白いハイビスカスのレイと、ムームーを手さげ袋に入れようとすると。
「これ、着て行く」と言って祖母がムームーを引っ張った。
「やめとき。こんなので外歩いたらおかしいよ」
「ふん、ほっとけや」
 恵美の友だちがインターホンに出た祖母の声を聞いて、「恵美んちって、おじいちゃんいたんだ」と言うくらいだから、けんかごしになると、祖母の声音は酒飲みのじいさんそのものだ。
 恵美は母が準備したベージュのTシャツと黒のパンツを祖母の目につかないところに引っ込めた。だいたいこんな色を筋金入りの派手好きに、あてがおうなんて無理がある。
 恵美はムームーを祖母の頭からかぶせた。穴から現れたのは金色に染めたちりちりの短髪。自称〝不良ばば〟という看板は、まだ下ろしていない。大きく開いた襟、ふくらんだ袖、祖母が少し動くだけで、スカートのギャザーが、わさわさと音を立てる。
「似合ってるよ」
 以前はお世辞にも言わなかった言葉が、すんなりと出た。
「今日は、どちらへ?」
「ええと……、あのう……」
 恵美は祖母のムームーのスカートをつまんで見せた。
「ああそうやこれや、これ」 祖母は嬉しそうに、そろえた両手を胸の前で波を描くように動かす。「すぐに忘れてしまう。年のせいかな」と言うと、祖母は自分の頭の横で、人差し指を立て、くるくるくると回すとパーと手を開く。よく、そんな自虐的なことを小気味よくやる祖母だったが、今は、ぼけたなあと感じて悲しくなる。
 
 忘れ物がないかと、祖母のバッグの中を見ると、バスカードと財布、ティッシュ、鍵、それから一枚のメモが入っていた。
「〝とよちゃん イセエビ〟」と恵美が読んだ。祖母の筆跡だった。
「そうやった。とよちゃんに電話して送ってもらわんと」と祖母が言った。
「豊子さんは亡くなったよ」
 恵美は祖母の手からメモを取り上げた。
「え? 亡くなったん? いつ?」
 とよちゃんというのは、祖母の従姉妹だった。同じ漁村に生まれ、祖母は18で都会に出てきたが、豊子さんは同じ村の人と結婚して、ずっと海女を続けていたそうだ。去年、88歳で亡くなるまでは、冬がくると、生きたイセエビが豊子さんから届いた。そのときほど祖母が勇ましく見えることはなかった。祖母は、飛び跳ねるイセエビを包丁一本で、たちまちつやつやした刺し身にさばくのだった。
「そう……、とよちゃん、亡くなったん……」
 しんみりとうつむいて、祖母はバッグのファスナーを閉める。恵美はこっそりとメモをくず入れに捨てた。

 恵美がキッチンに戻ると、母は朝食のあとかたずけをしていた。疲れたときは、いつでも腰かけられるように、そばには丸椅子が置いてある。母は5年前に脳梗塞で倒れ、左半身に軽いマヒがあった。今でもリハビリに通っているが、歩行の際は杖が欠かせない。
「今日も駄目。やっぱりムームー着て行くって」
「もう、お願い、やめて」
 母は悲しみに満ちている。足が不自由になってから、母は家にこもることが多くなった。外出するのは、リハビリのときと、花粉症の薬が切れたときだけで、食料品も日用品も、宅配に頼っていた。ケアマネージャーから、週に一度のリハビリ付きのデイサービスを勧められていたが、頑として拒否した。そのくせ、祖母には強くデイサービスを勧める。むろん祖母も拒否している。「好きなの着させてあげようよ。だいたい、ばあちゃんは、人が選んだのなんか着ないよ」
 恵美は壁の鏡に顔を近づけて、口紅を塗りながら言った。
「この前、前山さんの奥さんに言われたのよ。スカートが長くて危なそうだって。引っかけたり踏んだりして、転ばないかって」
「言わせておけばいいよ」
 上下の唇を擦り合わせて口紅をなじませていると、鏡に祖母の姿がうつった。
「恵美ちゃん、これ、なくなってしもた」
 祖母がかざしていたのは、マニキュアの容器だった。祖母に頼まれて、おとつい恵美が買ってきたばかりだった。
「もう、ばあちゃん、塗りすぎやよ」
「塗りすぎやないよ」
「爪、見せてよ。ほら、こてこてになってる」
「こてこてやないよ」
「しょうがないなあ。バイトの帰りに買ってきてあげるよ」
「恵美ちゃんは、やっぱりええ子やねえ」
 祖母が千円札を出す。
「ありがと。おつりはお駄賃だね」と言うと、母が険しい表情でこちらを見ている。
「じゃ、行ってきます」
「車に気をつけなさいよ」
 それは、今では恵美が家を出るときの母の呪文のようになっていた。

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