桜の木の下

その日も彼女は桜の木を見ていた。荻窪駅と西武新宿井荻駅の中間に位置する妙正寺川の桜は今年も満開に咲いていた。行き交う人はほとんどいないこの通り。いつも彼女は朝、通学中に立ち止まってこの木を見る。この季節になると必ずそうしている。彼女が木を見ている姿はまるで教会でお祈りをして目を閉じているときの静寂に近く、とても神秘的であり、畏敬してしまうほど美しかった。すると、彼女は僕の存在に気づき、少しの沈黙のあと「この花びら一つひとつ、とても綺麗で美しいけどすぐに無くなるんだよね。本当に信じられないことだよ」とポツリと言って木の下を見て「でもこの桜が美しいということは信じていいことなんだよ」
「ねぇ、この桜の木の下には何があると思う」
そう僕に話しかけると、「根っことか土とか水分とか」と答えた。「そんなんじゃこんなに美しいものは生まれないわ。きっとね。きっと、汚いものがあるんじゃないかしら」「桜の木はこの時しか美しく生きられない。一瞬なの、その一瞬のために他の全て他から奪ってくれてるの。空っぽのカスになるまで。血、肉、内臓も誰かの断りも得ず、自分のことしか考えず、他のことなど勘定せず、私利的で傲慢でとても汚いし綺麗。」「汚いものって?」僕が質問しかけると彼女は通学路へと戻っていった。一人ひとり残された僕は、不安な気持ちになっていた。学校のチャイムが鳴り登校時間ギリギリだと気付いた。彼女の言っていたことがずっと頭の中から離れない。特別でも何でもないこの桜を彼女はどんな風に見ているかずっと気になっていた。でも今日少し聞けた。明日またあそこの木で会おう、会って話そうと思った。
次の日、桜はまだ残っていたが昨日よりも散って、地面には踏み潰された花びらが広がり綺麗とは程遠い。行き交う人はほとんどいないこの通り。彼女はまたそこにいた。しかし、いつもと違っていた。彼女の制服のシャツの腹部は真っ赤に染まっていた。顔はどこか穏やか顔つきをしていた。木の地面には人が入るくらいの穴が空いていた。訳がわからず、ぼんやりとしていた。自分の手を見ると血に染まったスコップを握っていた。汚いし綺麗だ。


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