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父の死 17回忌を越えて その3

前回から、だいぶ日があいてしまった。
その間に、お世話になった方が亡くなったり、バタバタした年末年始、そして新たな家族の問題が起き・・・父の死について振り返るのをやめてしまった。
がしかし、やはり腰を落ち着けて、きちんと締めくくろうと思う。

2005年9月の良く晴れた日、国立国際医療センターから、姉あてに電話がかかってきた。「父の容体が悪化した」と。
もともと見舞いに行く予定で、駅に向かっていた道中だった。
父が末期の食道がんと診断されてから、父に残された時間が長くないだろうということは覚悟していた。しかし、容体が悪化というフレーズを聞くと、焦ってしまうものだ。心の準備とは、平時にのみ発揮されるものなのだろう。病院の近くの駅まで行き、何故かいつもは乗らないタクシーに乗った。
動揺していたのだろう。なんでそのルートで病院に行こうとしたのか、全然思い出せない。

病院に着いて、いつも通り訪問者専用のマスクを着けた。
結核病棟はいつもと変わらず、元気な外国人や若者の話し声で活気があった。医師から説明を聞くため、小さな部屋に入った。その時も、廊下から楽しそうな話し声、笑い声が聞こえてきた。死という悲壮感が全く漂っていないこの病棟に居られたことは、父にとっても救いだったのかもしれない。

医師の説明では、末期がんと結核の併発という特殊な病状なので、状態を楽にする薬を投与すると何が起きるか分からない、そのまま・・・ということもあるだろうと言われた。
私と姉はほんの一瞬悩んだが、楽にしてあげて欲しいと伝えた。
すぐに点滴が投与され、まだ医師と話している間に、父の容体はあっと言う間に更に悪化していった。慌てて父の部屋に行ったが、すでに意識が混濁しているようだった。医師や看護師が慌てていた。姉も慌てて、妹と母に連絡をしていた。医師、看護師、姉から父に声をかけ続けるように言われた。
何を言おうか迷った。言いたいことが有るような、無いような。意識が薄らいでいく父の手を握り、声をかける。「お父さん!しっかりして!」そんなことを言ったと思う。父も反応し、私に話しかけてくる。酸素マスクをつけているので、何を言っているのか聞き取りにくい。
相変わらず、父自身は死ぬと思っていないらしく、穏やかな顔で・・・ではなく、ごく普通に見舞いに来た娘に話しかける要領だった。酸素マスクのマスクとゴムひもを持ち、「鼻がかゆい・・・」それを最期に父は亡くなった。
今振り返っても思う。他に言いようがあっただろう。言いたいことがあっただろう。ドラマや映画で散々見てきた、家族の最期を看取るワンシーン。
「今までありがとう」みたいなことを父から言われ、私も父に言うもんだと思っていた。手を取り合って、涙を流して・・・みたいな。
だが、私と父の最期の会話は、実に生活感あふれる、鼻の不快感を伝えるやり取りで終わってしまったのだ。眠るようにではあったが、明日また起きてくるような最期だった。

妹が病院に駆けつけて、正式な死亡宣告がされた。
そこから、一気に忙しくなった。
親類に連絡し、葬式の手配などをした。父方の祖母は大学病院に検体をしたらしく、父が生前、誇らしげに話していた。そのことを思い出し、検体した方が父が喜ぶかな?いや、いいよ。それより、分骨した方がいいんじゃない?お墓は寺にあるけど、宗派が分からない、などなど。三姉妹でバタバタしながら、色んなことを決めた。合間に涙を流しながら。

お葬式は自宅近くの宿泊できる施設で行った。
通夜・告別式には、親類、仕事関係、飲み友達、近所の人・・・大人数ではないけど、色んな人が来てくれた。
父は兄弟・親類とそりが合わず、大人になってからあまり交流が無かったようだが、さすがに葬式には兄弟が駆けつけた。また父以外の兄弟同士も仲が良くないようだ。聞けば祖父母が亡くなって、遺産相続をきっかけに更に仲違いしていったらしい。祖父母が私のために買ってくれた立派な羽子板を盗んでいった叔父や、父と相続した土地でモメていた叔父に久しぶりに会った。もっとも、最後に会ったのが幼少期だったので、顔も覚えていなかったが。
葬式のときも、身内・親類より、飲み仲間や近所の人の方が泣いていた。
面白い人だったとか、面倒見のいい人だったとか。家族にとっては破天荒な父は悩みの元凶だったが、人様と楽しく、仲良くしていたのが証明されたようで、嬉しかった。父の人生の明るい面を見た。血のつながりの無意味さと、他人の優しさ温かさを思い知った。父は他人に愛された人生だったのだろう。
通夜・告別式で父の兄弟が散々飲み散らかして帰ったあと、私たち三姉妹も、蕎麦屋で飲み明かした。
姉は食事が喉を通らないと言っていたけど、私と妹はいつもと同じ食欲だった。やはり、姉妹でも全然違うものだ。香典袋を開けながら、金額の大小や、ピン札を入れてきた人の非常識さ、父の兄弟の悪口を酒の肴にして、気晴らしをした。他人の情と強欲な親類と現金な娘たちによる通夜・告別式は、父の目にはどう映ったのだろうか。

その後、父の兄弟から、父にお金を貸していたから返せ!という連絡や脅しの電話をかけてきたので、弁護士を入れて正式に父の兄弟とは絶縁した。
他に、父が相続していた土地を売却し、父が滞納し続けていた固定資産税と遅延損害金をたっぷり払い、父がひとりで住んでいた部屋を便利屋に頼んで、ゴミを処分してもらい、引き払った。部屋を明け渡す日、何もなくなった父の部屋で、父の好きだったキリン一番搾りをひとりで飲んで、少し泣いた。
遺骨は父の故郷の山にある祖父母が眠る墓と、京都の名のある寺に分骨した。京都の寺に納骨しに行った際、お坊さんの袈裟からチラリと見えた腕に、煩悩の塊のようなキラキラのロレックスが付けられていて、お布施を出すのが惜しくなったのを強烈に覚えている。浄土の入口で俗欲を見た。

父が死んで怒涛の数か月だった。
あの頃は、父のことをすぐに思い出せたし、思い出すとすぐに涙が出てきた。仕事中、電車に乗っているとき、食事しているとき、誰かと遊んでいるとき、デートをしているとき、あらゆるときに、ふと気を緩めると、父に似ている後ろ姿をみつけると、何かにつけて、ほんの数秒で目に涙があふれた。離れて住んで10年以上経つ父だったのに、こんなに悲しみ深く続くとは思わなかった。
もっと何かできたのではないか、もっと優しくしてあげれば良かった、もっと早く病気に気づいてあげれば良かった、もっと入院生活を快適にしてあげられたんじゃないか、もっと長生きする方法があったのではないか、様々な後悔が押し寄せてきた。大事な人を亡くしたら、多くの人がそう考えるのだろう。
私も、一通り落ち込み、後悔し、反省し、死というものが、どうにも出来ない人知を超えたものだと思い知った。

それから時が過ぎ、三回忌のときに、父の故郷のお墓参りに行った。納骨のときに初めて訪れた地だった。飛行機と電車とバスを乗り継ぎ5時間ほどの田舎。お墓のある寺の近くの食料品店には、肉の入荷は火曜と木曜です。と書かれていて、物珍しさからガラケーで写真を撮った記憶がある。一瞬でよそ者だと分かったようで、地元の人にまじまじと見られた。
その頃には、父のことを思い出す機会も減っていたし、あんなに涙もろかったのが嘘のような、日常を過ごしていた。
寺に着いた。2度目の訪問だったのに、初めて来たような気がした。納骨のときの記憶があまりないことに気づく。山の中にある先祖の墓につき、やぶ蚊が飛び回っている中でお経をあげてもらった。全然お経に集中できなかったし、私の血を吸ったやぶ蚊を何匹も殺生してしまった。
寺に戻り、お堂に通され、お茶を頂いた。檀家は、私と同じ苗字の人ばかりだった。あぁ、たしかにここが私のルーツなんだなと思った。
住職の奥様が、「遠くからよく来てくれてたけど、お父さんに手を合わせたければ、この寺の方角に手を合わせてくれれば、それだけでお父さんに伝わわりますよ」そう言ってくれた。
その言葉にどれだけ救われたか分からないし、言われた通り、ときどきお寺の方角に向かって手を合わせている。あれ以来、お墓参りをしていない。本当に酷い娘だと反省している。

以上が、私と父と死についてだ。あれから20年近く経つ。
明日、夕陽の方角に手を合わせよう。

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