「子ども同士で解決させる」という大人の逃げ
私は自分の子どもが友達と喧嘩をしていても、基本放っておく。子どもたち同士で解決しろよと思うし、解決を大人に求めてくる子どもがいると「自分で伝えてこい」と突き返す事すらある。教員時代から、「先生に言ってやろ」的な、困ったことは近くの大人に言えば味方になってくれる、解決してくれる的な思考がいやで、片目で見守りつつも「いやいや、自分たちでどうぞ」的なポジションを取ってきた。
解決のチャンスを大人が奪ってはいけないと思うし、起こった出来事に対して子どもに委ねるのがいいと思って、ここまで生きてきた。
しかし、昨日、
その常識がひっくり返る出来事があった。
全てがそうとも言い切れない、と今は感じている。
大人も傍観者というポジションで当事者になっているケースがあるのだ。
自分自身が「子どもの問題に手を出さない」という思考停止に陥っていたことに気づいて、昨日はかなり凹んだ。
全てを説明しきれないけれど、
私の友達と子どもたち(同じ年頃の小学校2.3年生の子どもたち)同じスペースで何時間が過ごしている中で、子ども同士の悪ふざけがエスカレートしすぎて泣いてしまう子が1人出た。
子ども同士で楽しすぎてエスカレートすることってめちゃくちゃある。しかし、私は前途した立ち位置に思考停止していたので、何もせずただ見ていた。
でも全てが目の前で起こっていた。大人も子どもも同じ空間でそのやりとりの当事者となっていたのだ。
それを私の同級生(大人)が
調子こいていた自分の子と私の子に向かって、かなり強めに非難し、説教を始めた。
子どもに向かって本気で取り組む大人を見て、ハッとした。
子どもの理不尽やおかしいことを傍観しているのは、教育でも何でもない、機会を奪うとかそんな綺麗事ではない、いじめを傍観するのと同じである、と。
もしかしたら、自分の子どもに伝えるのと同じように人の子にも「お前間違ってるよ」と言える覚悟が無かったのかもしれない。
自分は関係ない顔をして、線引きをして、子どもだけでやれという立ち位置に思考停止して、いじめの傍観者になるという自分の在り方がめちゃくちゃダサい、と思った。
大人と子どもが関係ないところにいるのに、子ども同士の中にズカズカ入っていくのは、違うと思う。
しかし、子どものやりとりを全て把握している距離にいながら、ただ傍観することは、傍観するという立ち位置を強烈に肯定してしまっている。いじめの傍観者のザお手本になってしまっている、と。
大人というポジションに思考停止して、
傍観者という当事者になっていないか?
昨日から自分自身に言い聞かせています。
自分への戒めであり、反省文です。
マジで悔しい。
ごめんなさい。もう二度としない。
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