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「死のう」と選択肢ができる時

とてもヘビーなタイトル
誰でもない"私"の今日の備忘録は少しカロリー過多で、オチはないですが、よかったらお立ち寄りください。

中学時代も「死のう」という選択肢があった時期がありました。家庭環境や学校での出来事。知らぬ間に何かが積み重なって、あるきっかけで爆発する。思い返すと、何がそんなに自分を思い込んだのか、今はわかりません。思い出せるのは、家の外で、疲労と情緒が不安定により、飛び降りようとして飛べなくて、ただただ苦しくて泣いた夜。

そしてここ数年、特に気にはしなかったが、ふと「死のうかな」と選択肢として挙がっていることに気づいた。ここ数年に関しては、"生きづらさ"の積み重ねにより、もうこの人生を終わらしてもいいんじゃないかと思ってしまう時があります。


自分が思う”私”と周りが思う”私”の差

話が変わりますが、みなさんは人見知りしますか?私はしません。むしろ人と接するのは好きです。そして、第一印象も基本いいです。ただ、今その第一印象が私そのものだと思われることに、最近たまに疲れます。そして、内面を知ってもらえなかったなと少し落ち込みます。そうじゃない部分を話したり、素を出しても信じてもらえないことが多いです。なぜなら、その人は明るくて前向きだけな”私”と接したいから。考えすぎと思われる方も多いと思いますが、こちらももう無意識に達しているというか、これまでの環境もあり、人一倍、他人の感情に敏感なんです。だから決まって一人になったときに、その疲れで何も考えたくないのに、どうしてこうなのだろうと脳みそを働かせます。明るくて前向きな”私”も私ですが、それが成り立つのは、暗闇でもがきながら自分と向き合ってる”私”もいるからなんです。

気遣いだけの世界

この話題を書こうとなったきっかけ「生きづらさ」のなかの「気遣い」。自分に何度も言い聞かせてきたことではあるが、なぜか身につかないそれが”何でもかんでも気を使うな”という私の信念。私は、気が使える人と気が使えない人がいると、気が使える人が”負担”ばかり背負って生きてる気がするんです。私が未熟だからこの考えになることをお許しください。だから、私はもう少し自分勝手に生きていこうと思って生きています。でも、道の譲り合いとか、EVで乗ってくる人のためにドアを開けてあげるとか、誰かのちょっとした変化を気遣える人、気を遣う人を気遣う人がいると、とても心地よく思えるんです。わあ、素敵だな。気分がいいな。今日はいいことありそうだなって。非現実なことを言えば、それだけがある世界で生きたいんです。でも、「気遣い」も十人十色なので、もしかしたら誰かにとっての私は気の使えない人部類かもしれない。そう思うと、やっぱりこの世界を生きるのは難しい。

生きたいから生きづらいのかもしれない

「死のう」という選択肢への向き合い方。正直、私にとってこの選択肢はマイナスなことではありません。マイナスとするから、より生きづらいと知ったからです。実際死んだところでその先自分がどうなるかわかりません。取り残された自分を愛してくれる人たちに対しては、少し寂しい思いをさせてしまうと思いますが、生きる先には死があるもので、それが人によって遅いか早いか。それに、本当にいつ私の「死」が来ることかわからないからこそ、まだ選択肢として「死のうかな」と挙がるくらいの今は精一杯生きよう思います。

最後に

読んでいただきありがとうございます。いろんなことが重なり、家についた瞬間泣きながらパソコンを開きました。言葉にしていくうちに自分を客観視できて、今は落ち着いています。「そういう日もある」これを口癖にしていても、どうしようもない日が人生長ければ長いほど訪れると思います。だからどうか、同じ状況に陥っていて、自分を傷つけてしまっても、最後の最後は自分を労うことだけを考えてください。自然と落ち着き、本当にどうすればいいか道が見えてくると思います。ちなみに私は、この状況になったきっかけたちから心情的にも物理的にも離れようと思って行動しています。自分の人生なんで舵は自由に操っっていきましょう。


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