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トレイルに潜む「地表のミミズ」と「ピンクの羊」

その日は、朝早くから緑色の風が吹いていた。空は混ざりっ気のない青一色。どこまでも続く丘には、膝ほどの背丈の草花が生い茂る。その斜面を蛇行する一筋のトレイル。線をなぞるように、一歩一歩と足を前に進める私。その心は空の青にも負けないほどのブルーに染まっていた。それも、かなり濃い、泣きたくなるような、極めて惨めなブルーだ。

Leona Divide 100km。ロサンゼルス郊外の自宅から30分程度のところで催された地元のトレイルレース。朝6時から夜8時半まで走り続け、14時間30分で何とか完走は果たしたものの、ゴールに至るまでの道のりは、時に悲しげなバイオリンの音色が似合うような悲劇的、かつ喜劇的なものだった。

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距離100km、累積標高1万フィート(3,000m強)とそこそこ高低差はあるものの、経験したことがない程きついコースではない。当日の気温も例年ほど高くなく、快適に走れる環境は整っていた。ところが、現実はと言うと、気持ちよく走れたのはスタート直後の1~2時間程度。太陽が東の空を中ほどまで昇った頃には、状況は一転していた。

その気持ちを言葉にすると、土の中から自らの意思とは無関係に急に掘り出され、地表でもがき苦しむミミズ、と言えば多少なりとも理解して貰えるだろうか。序盤で無脊椎動物と化した私は、その後長時間に渡ってニョロニョロと、とても辛い時を過ごす羽目となった。お陰で今ではミミズの気持ちが少し分かる様になった気がする。これからは庭の手入れをする時には、ミミズにもう少し優しく接してあげよう。ミミズだって生きているんだ。

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スタート地点から3時間ほど。いつもなら走りながら、「あ~気持ちいいなぁ~」と、つい声に出してしまうようなシングルトラックのトレイル。延々と遥か彼方まで続く緑の丘々。雲一つない宇宙色の空。本来なら極上の喜びを与えてくれる筈のそれら。今回、網膜に投影されたのは、「どこまで走っても代り映えのしない退屈な景色」だった。

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時折、大きなバックパックを背負ったハイカー達に遭う。トレイルの幅は1メートルにも満たない。すれ違う時には、互いに声を掛け合う。今回のルートの大部分は、パシフィック・クレスト・トレイル、通称PCTと呼ばれる、メキシコ国境からカナダ国境までを結ぶ全長4,270㎞のトレイルと重なっている。大きな荷物を背負って北へと向う人達の多くは、何か月も掛けてカナダ国境を目指すスルー・ハイカー達だ。メキシコ国境を目指して南下するハイカーがこの辺りを通るのは、まだ数か月先のことだろう。単独で北を目指すハイカーも思いのほか多い。皆、一様に何かを求めてこの地に来たのだろう。

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傍らには、求めるものが何なのかも分からず、「もう走りたくない、早く家に帰りたい」と愚痴るランナー。山道でウーバーの迎えがある筈も無く、いくら文句を言ってもても選択肢は限られている。雪まじりの冷たい雨に一日中打たれたり、砂漠で灼熱の太陽に晒され続けたり、「これはヤバい」という経験をしたことは幾度となくある。然し、目の前にあるのは、極寒の山岳地帯でもなければ、猛暑のモハビ砂漠でもない。疲労が極限に達している訳でもない。只々、気持ちが入らないと言うか、情熱が欠如していると言うか、兎にも角にもスキッとしない。こんなことは初めてだ。

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昼夜走り続けるウルトラマラソンでは、メンタルのアップ・ダウンは付き物だ。ただ、アップ無しのダウン・ダウン・ダウンはさすがにキツイ。全行程の三分の一にも満たない30㎞地点で既に「面白くないなぁ感」が全身を覆っていたが、それに輪をかけたのが胃の不調だった。


私の場合、通常レース中の栄養補給食はほぼすべて持参し、水以外はエイドステーションに頼らない。今回は「夜通し走る100㍄じゃないし大丈夫だろう」という事で、エイドステーションでの栄養補給食で全て賄う、という新たな試みで臨んだ。主食となるのはピーナツバター&ジェリーサンドイッチやポテトチップス。時にはケサディージャ。カロリー満載のジャンクフードのビュッフェだ。それらをスイカやバナナと一緒に口に押し込み、生温かいコーラで胃袋に流し込む。ムシャムシャ・モグモグと口を動かしながら少し気になっていた事があった。後になって、その不吉な予感が現実のものとなる。

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遡ること数年、トライアスロンをしていた頃。数時間で走り切る42㎞のマラソンと異なり、アイアンマン・レース(スイム3.8㎞+バイク180㎞+ラン42㎞)ともなると10数時間に渡って動き続けることになる。その間の栄養補給は極めて重要で、それを怠るとハンガーノックと呼ばれるガス欠の症状で、ぱったり動けなくなる。補給食の好み、と言うかあう合わないは千差万別で、自分に何が合うかは各々が見極める必要がある。私も何種類ものブランドやフレーバーのジェルは勿論の事、おにぎり、サンドイッチ、チューブ入りの梅など、これでもかと言うほど色々なものを試した。スイムの直前、バイクに乗りながら、更には走りながらと場面も多様だ。甘いジェルは数時間摂り続けても何とか耐えられた。梅は塩分補給には有効だが口の中が酸っぱくなってダメ(当たり前の様だが試してみないと分からない事も稀にある)。プロテインを多く含む食べ物やドリンクを摂った後は吐いた。そうやって、自らの体で人体実験を繰り返し、効果的な栄養補給方法を身に着けていった。


話をエイドステーションのジャンクフード・ビュッフェに戻そう。容易にエネルギー補給をするために、まず手に取ったのは、いかにもカロリーが高そうなピーナッツバター&ジェリーサンドイッチ。ピーナツバターの独特な味が口の中に広がるたびに、「プロテイン大丈夫かなぁ」、と言う一抹の不安が、トーストにバターを塗るように頭に広がった。それを打ち消すように、既に何年も経っているし、当時と比べると場数も踏んでだいぶタフなトレイルランナーになっている筈だ、と自分を騙し騙し、胃袋にジャンクフードを流し込んだ。しかし、物事が思ったように行かないのは世の常。暫くして深刻な症状が表れはじめた。「プロテイン・アレルギーによるゲロ吐きそう病」(本当はアレルギーでも何でもない)、そして炭酸飲料水の摂取過多による、「腹部パンパン・ゲップ症候群」。"タフ"なトレイルランナーは、あっという間に見る影もない惨めな姿へと変貌した。

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序盤からの原因不明のダラダラ・ニョロニョロに加え、不調を訴える胃腸。これまでの経験で培ってきたランナーとしての自信という鎧が剥がれ落ちるのに、長い時間は要さなかった。道半ばで自信を喪失したランナーの心の内はと言うと、毛皮を刈り取られ、ピンクの肌をさらけ出す可哀そうな羊・・・の様な気持ち。太陽は漸く頭上に差し掛かったばかり。そこからトボトボと長~い彷徨いの道が続く。時に歩き、時に走り、時に胃の不調に耐えきれず立ち止まり・・・


60㎞付近だったろうか、知り合いの日本人ランナーと擦れ違った頃が不調のピークだった。折り返しのルートをいち早く戻ってきて、颯爽と駆ける姿が視界に入る。何とか笑みを作り元気に声を掛けようとしたが、発された唯一の言葉は、「もう疲れちゃった」の情けない一言。タフさの欠片もない。


不調を訴える胃袋は、もう食べ物は受け付けないと異議申し立てを繰り返す。苦情を受け入れて栄養補給を絶やせば、直にエネルギー切れとなるのは目に見えている。仕方なく食料を口に運ぶ。とは言っても我慢にも限度がある。吐いてしまえば楽になる。しかし走るためのエネルギーを吐き出す訳にはいかない。八方塞がりだ。ミミズと羊を総動員させて考えを巡らせる。


人間の体の中で、一番エネルギーを使う臓器は脳と言われている。そして、その脳の唯一のエネルギー源はブドウ糖である。つまり栄養補給を怠ると、真っ先にへたるのは脳だ。疲労感が増し、もう走るのは止めろという信号を体の至る所に送り始める。難しいことも考えられなくなる(栄養が十分な時でも難しいことを考えるのは苦手だが)。本来であれば、こんな時こそ糖分摂取が必要不可欠なのだが、胃が甘いジェルを受け入れない。ミミズとピンクの羊は考える。思考能力が落ちた脳で考え続ける。そして辿り着いた答えは、「もう何も食べない」。いかにもミミズらしいイージーな答えだ。

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最後に食べ物を口にしたのは64㎞地点にあるエイドステーション。それも茹でたジャガイモをひと欠片だけ。それからは、吐かないことを最優先とし水のみとした。有難いことに背中のハイドレーションパックには氷満載の冷水が入っている。エイドステーションでボランティアのマウリシオという親切な青年が入れてくれたものだ。奇しくも息子と同じ名前のこの青年の献身的なサポート、そして温かい言葉が完走へのエネルギーとなったのは言うまでもない。

残り36kmを栄養補給なしという苦肉の策であったが、幸いにも、これが功を奏すこととなる。ミミズ君の単細胞的なアイデアもまんざらでもなかったと言いうわけだ。太陽がに西に傾き始めるころには、すっかり元気を取り戻し、夕陽に向かってひたすら走っていた。

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80㎞を超えて尚、エネルギー切れの兆候はない。胃袋も完全復活とは言わないまでも、十分耐えている。心配していた膝の痛みもない。実は、昨年11月に走った100 ㍄レースでは、序盤の28㍄あたりから猛烈な膝の痛みに悩まされた。原因はITバンド症候群。所謂、ランナー膝だ。それ以降の数ヶ月間、走るフォームを変えたり、頻繁に臀部のマッサージをしたり、知り合いに勧められたインソールを使ったり、様々な試みをしてきた。今回のレースに当たっては、普段使わないテーピングを太腿から膝にかけて施した。それでも、痛みの再発は大きな不安材料だった。残すところ20㎞。当然、疲労感はあるが、膝の痛みは全くない。何とか持ち堪えてくれそうだ。

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ミミズ症候群を抑え込み、ピンクの毛なし羊をなだめすかし、その先に見えた景色。それは傾く夕陽に彩られ、オレンジ色に輝く世界だった。数時間前に見た「代り映えのしない退屈な景色」とは似て非なる、美しい世界だ。ニョロニョロ・トボトボを克服し、新たな自信へと繋がる輝きにも見える。刈り取られ露出したピンクの肌がふさふさの羊毛で覆われる日も遠くないだろう。

やがて陽は沈み、闇がトレイルを包み込む。脳はブドウ糖不足で朦朧としている事だろう。ゴールは近い。あと少しだけ耐えてくれ。夜道でネコバスの幻覚は見たくない。

最後に:

何を隠そう、このローカルレースLeona Divideはウェスタンステイツ・エンデュランスランという、世界で最も権威のある100㍄レースのエントリー資格を得るための大会に指定されている。勿論、今回の出走もそのためだ。16時間以内の完走が条件となっているが、幸いにも14時間30分でゴールして、2023年大会への申し込み資格を得た。然し、この先が狭き門だ。12月に何十倍と言う競争率の高い抽選が待っている。過去4回に渡って申し込んでいるが、ハズレが続いている。5度目の挑戦、幸運の女神が微笑んでくれるだろうか・・・

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