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コンテンツの古典化という観点から教育を考えてみた

nicoと申します。

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2022年最後の寄席

本日、今年最後となる寄席に行ってきました。
2022年は寄席とホール落語、合わせて15回聴きに行き110席の落語を聴きました。

古典落語と新作落語

落語には古典落語と新作落語があります。
古典落語は江戸時代から大正時代くらいまでに作られた落語を指します。
一方、大正以降に作られた落語は新作落語と呼びます。
「新作」といってももう100年近く経っているような「宗論」「猫と金魚」「動物園」など準古典と言っていいような作品もありますし、もちろん今活躍中の噺家さんが作る新作も数多くあります。

そして落語の世界では、古典はもちろん新作であっても、他の噺家によっても口演されることがあるのです。

漫才の演目はなぜ共有されないのか

落語とは別の話芸に「漫才」があります。
私は関東出身なので漫才文化に精通している訳ではありませんが、1980年代の漫才ブームを知っていますし、それより以前の演芸ブームも覚えています。

そこで思うのですが、漫才の演目はなぜ共有されることがないのでしょうか。

演者に沿ってネタが創られているから、というのは理由にならないと思っています。
新作落語も始めは初演の演者に当て書きで創られるのが普通ですから。

時事ネタが多いのが理由でしょうか?
でも時事ネタ以外でも共有されているとは聞いたことがありません。

結局は、共有財産として受け継がれていく文化が存在するかどうかのような気がします。

共有され古典化するメリット

古典化のメリットは、コンテンツとして消費されないことです。
演目のあらすじは既にわかっているのですから、どう演じるのかを見聞きするのが目的となります。
早送りで見ても仕方がないのです。

また、同じ演目をやると個性が浮かびあがるというのは、クラシック音楽、歌舞伎、能、狂言などでもみられるメリットではないでしょうか。

デメリットは、ストーリーやアイディア・システムの取り合いとなるかもしれないことです。
創作者にとっては苦しく感じるかもしれません。
業界全体の底上げになるのか、それとも新たなものを生み出す力が弱まってしまうのかはわかりません。

教育コンテンツは古典化され、逆に演者(トレーナー)で選ばれるようになるのかもしれない

教えるべきネタがあります。
講師Aの解釈ではここにポイントが置かれ、講師Bは別の角度から教えます。

というのがさまざまあって、受講者の向き不向きで選べるのがいいのかもしれないですね。

お読みいただきありがとうございました。
ではでは。

【今日の筋トレ】
スクワット STEP2 40回×1

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