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「最愛の夫。」/ショートストーリー

わたしは夫を心から愛している。

「どうだったの。健康診断の結果は?」
夫の背中に向かってたずねた。
「ああ。全然、大丈夫だよ。何も心配することはない。」
夫は振り返ってにっこり笑いながら答えた。
わたしの大好きな笑顔。
「と言うことで。もう一度乾杯しよう。」
「良いけど。わたしはもう形だけ。これから掃除やら洗濯しなくちゃ。」
そう。実はまだ朝なのだ。

夫が朝からお酒を飲むのは珍しいことじゃない。
だいたい、夫の仕事はバーテンダー。
よく、常連さんがおごってくれて仕事でも飲んでいる。
お酒に強い体質なのだ。
わたしなどはすぐに顔が赤くなって頭が痛くなってしまうと言うのに。

まあ。それが夫との馴れ初めでもある。
友達に無理やり誘われて初めて行ったちいさなバー。
内装は趣味が良くて、そこのオーナー兼バーテンダーはイケメンの上、接客対応も素晴らしかった。
わたしにとって、全てが完璧だった。

実は、わたしの友達が彼にぞっこんだったのである。
よくある話しと言えばそうだろう。
わたしも彼を好きになってしまった。
と言って、通っている女性のほとんどが彼目当てなのは通ううちにわかる。
彼の態度は男女関係なく誰に対しても同じだったので、余計に自分にも希望があると思い込んでしまう。
女性客だけが多いわけではない。
彼がプロとして仕事しているからだ。

誰に対してもいこごちの良いバー。
そこでは、誰もかれもが品格がある良い客になってしまう。
不思議なバー。

彼が何故わたしを選んでくれたのか、今でもわからない。
わたしは一生分の、いいえそれ以上の運を使ったに違いない。
だから、この先何があったとしても後悔することはないと思った。
そして、驚くべきことに皆が祝福してくれた。
誰かが嫌がらせしてもおかしくないはずなのに。
それも彼の人徳と言えた。

夫とわたしは入籍したが、式も新婚旅行もしなかった。
夫は仕事一筋で休みを取りたくないと言ったから。
わたしは彼と一緒なら幸せなのだから、なんの不満もなかった。
第一、夫はわたしに対して結婚する前以上の愛情で接してくれた。

だが。
半年ぐらい経つとある違和感がわたしの中に生じた。
朝からお酒を飲む夫。
いくらなんでも朝から飲むのは身体に毒じゃないと夫に言った。
そんなわたしを夫はとても不思議なまなざしで見たのである。
そのまなざしが何故かわたしを不安にさせた。
「何かあるの?」
と恐る恐る聞いたが夫は優しい笑顔のまま、沈黙した。

なんだか、それ以上踏み込んだら夫と一緒にいられなくなるとわたしは不意に思った。

ある日、市からの健康診断の書類を何気なく見てしまったわたしは驚愕した。
肝臓関係の数値がとんでもなく悪い数値だったのである。
わたしはあわてて、今までの健康診断の書類を探して読み返した。
もう何年もお酒はやめるようにとか、すぐに検査入院をとか書かれているではないか。
わたしは夫に一体これはどういうことなのかと涙ながらに聞いた。
「ほんとうはね。結婚する前に正直に話すべきだったのだが。よく、酒を飲んで豹変するひとがいるだろう。自分もそうなんだ。逆バージョンだけど。」
「逆バージョン?」
「ああ。普通は酒飲んで暴れたりするやつがいるだろう。理性が麻痺してしまうんだろう。自分の場合は、酒が切れたら理性や知性が吹っ飛ぶんだ。」
「そんなことって。だって、子供の時は?」
「子供の時か。うちの両親に正直に話してもらえばわかるけど。とんでもなかったよ。訳もなく暴れて。家はめちくちゃ。親や周りの人たちを怪我させて。」
そんな話はにわかには信じられなかった。
しかし、そんなウソをつく必要がない。
「16ぐらいの時かな。父親の酒を飲んだら、急に人格が変わったのさ。良い方へね。それ以来、酒は切らしていない。」
「でも。身体が。」
「君はどっがいい?健康だけど、君に乱暴するような夫と早死にしてしまうかもしれないけど今の夫のどちらがいい。」
わたしは涙が止まらずに夫を抱きしめた。

わたしは夫を愛している。
心の底から。
だから。
健康診断の書類は見ないの。
一緒に朝、お酒をつき合うの。


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