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読書¦あられもない祈り 島本理生

あらすじの一文に惹かれた。

「幼いころからずっと自分を大切にできなかった私」

物語の軸となる「私」と「あなた」は名前を持たない。「私」には恋人がいて、「あなた」には婚約者がいる。「私」の恋人は優しさの中に暴力性を秘めている。母親は娘である「私」に対してお金を無心する。

「私」は自分の感情を押し殺しながら日々を過ごし、浴室でひっそりと手首を切る。

「あなた」が主人公のことを本当に愛していたのか、読了した後もピンとこなかった。婚約者の存在がある限り、どんなに綺麗な言葉で取り繕っても結局は不倫の枠を出ることはない。

では「私」の恋人は主人公を愛していなかったのか。母親は愛していなかったのか。と考え始めると余計にわからなくなる。愛していたにせよいなかったにせよ、「私」はずっと苦しんでいた。

誰かを思うこと、思われること。その思いの形が歪であることで人はこんなにも傷だらけになれるのかと背筋が冷たくなった。

「あなた」と過ごすとき、確かに幸福があった。別荘の籐椅子に座って、一緒に琥珀色のシャンパンを飲んだ時間。「あなた」の誕生日にタルトタタンを切り分け、晴れた午後の中、背中を預けた時間。

しかし、「私」は毎日少しずつ狂っていく。

痛い、苦しい、淋しい、そのぜんぶを正当化できない息苦しさ。巨大な罪悪感を持ちきれなくて、あなたを責めた。自業自得だと思うほど飛び出す言葉は容赦なく、自分の内側から噴き出した毒がまわって病んでいく

「正当化できない息苦しさ」を、私もずっと抱えているような気がする。痛い苦しい淋しい。
それらを抱いていることに対する罪悪感。他の誰のせいでもなく、自分の毒で病んでいる。

別荘の鍵を手にしても、誕生日を2人で過ごしても、「あなた」は100%「私」のものにはならない。出会ったバーで必死に「私」を誘いだそうとしていた「あなた」は、2人で過ごす時も他の影を見るようになる。

物語の終盤、1人きりの石垣島旅行から帰った「私」は、空港で出迎えた「あなた」に「別れてください。」と告げる。

いつでも会える。いつでも抱ける。
でも、いつでも会いたいわけじゃなくなった。

純粋に別れを悲しむことすらできないほどに消耗していた「私」は、後悔することもなく「あなた」の元を去った。

「あなた」の荷物を全て送り返した後で、「私」は父親の入院先の病院を訪れる。
天井に眼差しを向けるだけの手を掴む。

一度でいいから何も奪われずに底なしに甘やかされたかった。でも他人と比較するから眩しすぎて実態が捉えられないだけで、実際はこの世に底なしに甘やかされて育った人間なんていない。
もしそういう人がいたとしても、それが幸福なこととはむしろ言いきれない。

それもわかった上で捨てられない幻想を大事に抱いてたくせに、口に出すことすらできなかった。

私だけを見て。いつもここに帰ってきて。
私だけを選んで愛して。
子供のように泣きながら、
あなたに素直に言えばよかった。

主人公にとって「あられもない祈り」とは、何の歪もなくただ純粋に、無邪気に、底なしに愛情を向けてもらうことだったのか。

「愛されたい」という願望は誰もが持っていると思う。でも、それを実際に言葉にできる人がどれだけいるだろう。「私だけを見て」と言いたかったのに、胸に秘めたまま言葉を飲み下す
大人がどれだけいるのだろうか。

それまで立ち込めていた霧がかすかに晴れるような結末だったにも関わらず、曇り空を飲み込んだような、どんよりとした触感が残った。

同時に、記憶の彼方に追いやっていたはずの「本当は愛されたかった」「選んで欲しかった」が感情の渦となって思い起こされ、後からあとから涙が伝った。

本を手にしたまま泣いていたのは、現在の私ではなく、もっとずっと昔、「愛して」と誰かに言いたかったのに言えなかった、いつかの日の私だったのかもしれない。

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