進撃の巨人 最終巻ネタバレ感想

進撃の巨人を読み終えました......読み終わってからというもの奇声を発するか日記に感想を書きなぐるかしかできないので初note。
ネタバレあり、3点リーダ長文オタクの気持ちが噴出するままに書くのでおどろきの長さです。こういう捉え方もあるんだねくらいに思っていただければ幸い......

とにかくよい......よかった......うーーーーうぉーーーーーー(止まらぬ奇声)

1.エレンにとっての自由

第1期のアニメ放映時に思春期真っ只中だったので、それいけエレン!自由を獲得するんだ!という感じで見ていたのだけど、
彼らと同じように年月を重ねてこの結末を読むと実は愛や安心のお話だったのかなあとも思う。

『トレイルズ 「道」と歩くことの哲学』という本の中に生物はどうやって道をつくってきたのか、というような話があって、作者が海底を這う古代生物について言及した一節にこんなことが書かれていた。

結局のところ、最初に力を振り絞って這った動物は、単に家に帰りたかっただけなのかもしれない。

進撃でも、自由への渇望とか未知への好奇心とか、復讐とか大義とか、色々な行動理由があったけれど、エレンがどうしても地鳴らしをやりたかったのは、その時が一番、心の底から安心できる時だったからじゃないかな。地鳴らしをしている間は、過去も未来も、地も空も、愛も復讐も、何もエレンを縛ることがない。

全てを知り、どこにも帰れないエレンにとって、あのくらいまっさらにしないと安心は、自由は感じられなかったのだろうな。

2.ミカサとエレンの赤いマフラー

進撃において、ミカサは愛の象徴的な存在だったのだろうか。

うーん、ミカサというか、マフラーかもしれない。エレンはミカサにマフラーを巻いて、ミカサはそれを愛として受け取り、大事に持っていた。途中で外していたのは、愛を盲目的に縛るものにしないためなのかな。

エレンはミカサの幸せのために、マフラーを外して、捨ててしまってほしいと言って、ミカサはごめん、できない、と自分の首にマフラーを巻き、エレンの首を斬った。

私はバッドなエンドにも微かな光を見出してもりもり食べるのを好む闇の同志なのですが、「これ色ついてたらミカサの首に赤いマフラー、エレンの首に赤い血でおそろいじゃん......初ペアルックじゃん......」と泣きながら歓喜しました。(地獄かな)

いや、こんなにも殺伐とした場面なのに穏やかな愛しか見えない......。エレンはミカサが生きて幸せになること望み、ミカサはエレンに死して安らかになることを望んだ。愛だなあ、なんか、ほんと、、、無私の愛だ。

3.始祖ユミルの愛

始祖ユミルの愛は、彼女を縛る苦しいものだったけれど、それはユミルがずっと分からなかったからじゃないかな。

最初に村で見た幸せそうな結婚式にあった愛と自分の愛は何かが違う。何が違うのか。自分が尽くしていれば変わるのか、待っていれば変わるのか、愛とは何なのか。

だからエレンとミカサの愛を見て、やっと自分が求めていた愛の正体に、最初に見た結婚式の愛の形に戻ってこれて、納得したのだろうな。
つまり進撃の巨人は、始祖ユミルが愛を知るための物語だったとも言えるのか。

全ての巨人をなくす=始祖ユミルが奴隷から解放されるには、彼女にとっての本当の愛を知って、孤独を癒さなければならなかったのかな。
命令で巨人をなくすことができても、ユミルは奴隷のままで、根本的な解決にはならない。だからミカサの愛の選択による2人の未来が必要だったのか......。

うむ、ほんとうにこれは、愛と安心、いってらっしゃいとただいまの物語だった。

4.人類と許し

ついったなどで最終回の虐殺肯定論争(アルミンがエレンを許したのは虐殺を肯定することになる、どんな理由であっても虐殺はいけない、というような)があったけど、あそこでアルミンがエレンを許せなかったら、それこそ平行線のままななのではないだろうか。

アルミンは誰かひとりが大虐殺をしたことを肯定したのではなく、エレンだったから許した。
ガビもカヤだったから許せたし、カヤもガビだったから許した。
みんな、大事な人を殺されたから許せないし、大事な人になったから許せた。

人類の壮大な話から始まったのに結局ただのエレンとミカサの話じゃないか!という海外の声もあったようだけど、まさにそれこそ人類の話だよなあと思う。

顔も知らない誰かから始まって、人類が人間に、ひとに、あなたとわたしになって、そこではじめて本当の人類の話ができる。顔を知ったとて、大事な相手だとて、だからこそ許せないということもたくさんあるけど......あるけども、大体はそれって自分のエゴだものな。

ミカサはエレンの首を斬ることで、そういう人間のエゴの部分を断ち切ったのかもしれない。なんとなくキリストの磔刑に通ずるものがある気がする。エレンの首を抱いてアルミンの前に現れるミカサの絵は、サン・ピエトロのピエタのようでもあった。

とはいえ、その後も戦いは続くというところがやっぱり人類のお話だなあと思う。隣人を愛せよとか、相手の痛みを知るだとか、大昔から争わずに生きる方法を知っているのに、結局なにも捨てられず許すことができないまま争いを繰り返す。自由に生きることができない。そこに諌山先生の怒りみたいなのも感じて、だからこそアルミンがこのお話の語り部なのだと思う。

5.本当の自由とアルミン 残酷で美しい世界

自由とはなんだったのか。進撃はずっと自由と言っているけれど、エレンは自由をつかむことができたのか。

名著『夜と霧』では、心理学者である著者がアウシュビッツの収容所で極限の身体、精神的状況に置かれるなかでの自由について書いている。

そしてわたしたちは、暗く燃えあがる雲におおわれた西の空をながめ、地平線いっぱいに、鉄色から血のように輝く赤まで、この世のものとも思えない色合いで絶えずさまざまに幻想的な形を変えていく雲を眺めた。その下には、それとは対照的に、収容所の殺伐とした灰色の棟の群れとぬかるんだ点呼場が広がり、水たまりは燃えるような天空を映していた。
わたしたちは数分間、言葉もなく心を奪われていたが、だれかが言った。
「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」

この本で著者は、自由というのは内側にあるものだ、と言っていて、
一歩踏み出すのも苦痛な足で極寒の労働をさせられているそのとき、大事な人の眼差しを思い浮かべ感じた幸福や、残酷な建物の頭上に広がる自然のうつくしさに圧倒される心、未来への想像力で苦しみや死にも向き合える内面のありようが自由なのだと書いている。

エレンはアルミンなら壁を越えることができる、エレンにとっての自由をつかみ、人類を救うことができると言っていた。
それはアルミンが飛び抜けた想像力と好奇心を持って未来をみて、前に進める人物だからなのかな。

人間が分かっていても争いを繰り返してしまうのは、多くの人が自分の経験の外で起こる誰かの苦悩には無頓着で傲慢で、痛みを忘れてしまえるからなのだと思うのだけど、アルミンならその壁を想像力で乗り越えることができるとエレンは信じているんだろうな。

またこれも『夜と霧』の一節で、

そこに唯一残された、生きることを意味あるものにする可能性は、自分のありようががんじがらめに制限されるなかでどのような覚悟をするかという、まさにその一点にかかっていた。
ー中略ー
およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。

読み終えてからしばらくは、進撃における自由を担っているのはアルミンで、エレンは最後まで自由を求める運命に縛られたまま、鳥になって初めて自由を得ることができたのだと思っていたのだけど、それも少し違うかもしれないと思ってきた。

自由というのは何にも縛られないことではなく、むしろ身動きのとれないほど制限された状態で、その状態自体を自分の意志で味わうことなのだ。

なにそれ地獄すぎる......そう、自分で自分の背中を押した奴の見る地獄は、地獄だけれど、自由なのだ。(だからこそ地獄マシマシなんよ......)

苦しみや死の恐怖を、自分のまま苦しみ味わい死ぬことが人間であることの自由とするなら、
過去も未来も知ってしまい、想像ができず、運命にがんじがらめにされても仲間の幸せを望み死んだエレンは、だからこそ実はだれよりも自由をつかんだのではないかなと思う。

エレンは鳥になったから自由になれたのではなく、自由を得たから鳥になれた。

そして、アルミンはそんなエレンの自由への物語を語り継ぎ、人々に想像力を与えながら、残酷な世界の美しさを信じて未来へ進んでいく。
エレンとアルミン、ミカサの3人は、この物語を、本当の自由とは何かを語る上で欠けてはならない3人だったんだなあ。

やっぱり進撃は愛と安心と自由の物語だった。

6.100年後のエピローグ

100年後に幼馴染3人がわちゃわちゃしてるエピローグが尊すぎて合掌したのですが、なんで100年後にしたんだろうという疑問もあり。

100年て結構微妙な数字じゃないですか。いやキリはいいんですけど、近くもなく遠くもなく......。70年とかワンチャン誰かが生きてそうな時代でもないし、かといって本当に巨人がいたなんて信じらんねえよなと思うほどの遠い未来でもな......と思ったところでそういえば今って戦後100年も経ってないんだなと思い至りました。
たった75年前にホロコーストやら世界大戦があったなんて信じられないよなあ。

映画を楽しんで今度また会う約束をするような3人の日常を受け止めつつ、誰かの痛みや過去の物語が実感の持てないものになっていくことへ諌山先生の危機感とか恐ろしさのようなものも感じた。

ゲーム・オブ・スローンズでもそういう意識があって、全ての過去や未来を見通せる力を持った者が一番多くの物語を知っていて、人類の語り部にふさわしい、という結論があったなあ。

進撃では、全てを知っている者ではなく、知らないことを想像できる者が語り部として選ばれていて、欧米と日本の違いというか、戦争から遠ざかった世界を生きる人間からの現実的で痛快なアンサーという感じでとてもよかった。
なによりその不完全さを愛する感じが最高に進撃だった。


うぅーーーーぉぉーーーーとにかくよかった......よかったよぉーーーーーーーー(以下エンドレス奇声)









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