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第2回:「小学校」という概念を見つめなおしてみる


学校って何だ

「学校」という言葉を聞いてイメージするのは、多くの人にとって、現在の(自分や子どもが通った)小学校や中学校の姿かもしれません。

そして、新たに「小学校をつくる」というと、
現在の小学校が抱える課題と向き合いながら、いかにより良くしていくか?
というふうに考えていくのが一般的かもしれません。

もちろんそれ自体は間違ってはいないのですが、一方で、

"We cannot solve our problems with the same thinking we used when we created them."
(いかなる問題も、それが発生したのと同じ次元で解決することはできない)

Albert Einstein

というアインシュタインの言葉のように、今一度「“小学校”という概念を見つめ直してみる」という試みも、大事な視点であると考えます。

学校を遡る

新留小学校の近所にある蒲生の大楠。樹齢1600年ほど

そのために、かなり大まかにではありますが、学校というもののこれまでを遡ってみます。

まず、「School」(学校)は、ギリシャ語で余暇・暇つぶしという意味のスコーレから来ていると言われています。
学問や芸術に専念し、幸福を実現するための自由で満ち足りた時間、といったニュアンスです。
きっと「学び」は「あそび(余白)」からうまれていくものであり、「遊び」とも分けることができないもの。
空を見ていたら「なんで星は動いてるんだろう?」みたいな問いから、学びのモチベーションは駆動し始めるのでしょう。

近代に入ってからは、ルソーやヘーゲルといった哲学者たちが、人と人がお互いに自由な存在であることを認め合う(自由の相互承認)ための感度を育む土台として、公教育(学校)を構想していきました。
何か問題が起きたときに、自分の正義のみを主張していきなり殴り合うのでなく、一旦お互いの自由を認めあった上で対話をしていく。民主主義の基盤を育む場ともいえます。

その後、産業革命が猛スピードで起きていく中で、各国による公教育制度が組み立てられていきました。
こうした時代背景もあり、学校という場は、社会や産業界から求められる人材育成(そのための能力を身につける場)という側面も強まっていきました。
昨今の日本における小学校の形やイメージは、この時代の流れに多分に影響を受けているとも考えられます。

日本ではじめてできた小学校

ところで、近代日本においてはじめての小学校は、1869年に京都で誕生した「番組小学校」といわれています。

国による学校制度の創設に先立ち、「まちづくりは人づくりから」という合言葉のもとで、京都の町衆の寄付等により設立されたものです。
運営費の一部は、各家庭や学区から「竈金(かまどきん)」と呼ばれる出資金を集めて賄われ、
小学校は教育だけでなく、地域を守るための役割も担い、町の人たちが会議する場や防災施設などもつくられました。
その家に子どもがいるかいないかに関わらず、竈(かまど)のある家、つまり全戸から学校設立のための資金を集めたのだそうです。

生まれた環境によらず誰もが通うことのできる学び場として、市内64カ所へと同時多発的に広がりをみせていきます。

日本における小学校のはじまりは、地域とともにつくられていったのです。


小学校を再定義する

新留小学校の廊下

では今、「「小学校」という概念を見つめ直してみる」としたら?

今回は、ふつうの学校を構想するにあたり、3つの視点を少しスライドさせてみることを提案してみたいと思います。

[一つ目の視点]ーーー
学校はそれ自体が独立して存在しており、必要に応じて地域や社会と連携する

⇨【提案】学校は、地域や社会という大きな生態系の一部であり、ハブである
ーーーーーーーーーー

・子どもたちの学びの場であることには何ら変わりはないが、通う子どもや親にとどまらず、地域の誰にとっても開かれているものである
・学びは学校空間に閉じることなく、地域まるごとが学びの舞台である
・学校も、地域に暮らす人も、産業も、自然も、一つの生態系として存在しており、その関係性の中で、プログラム化されたものもそれ以外のものも、多様な学びが湧き上がってくる

[二つ目の視点]ーーー
学校は小学生のための学び場であり、関わる人たちはそれを支援する・教える存在である

⇨【提案】学校は何歳になっても遊び学び続けられる場であり、関わる全ての人は共に学ぶ仲間である
ーーーーーーーーーー

・子どもたちはもちろん、100歳になっても遊びにきたり学びにこれる場である
・先生も地域の人も子どもたちも、学校をともにつくる仲間であり、そこに生活する一人の人間である
・年齢問わず、いついかなる時も、一人ひとりが探究したい問いを持つことができる
・教える人と教えられる人も、多種多様であり、時に主客が入れ替わることも、一緒に探究することもある

[三つ目の視点]ーーー
国の教育システムに基づき、全国津々浦々へと一定以上の品質の教育環境を届ける

⇨【提案】各地域の人や風土によって生まれていく実践知と共に、教育システム自体も野生的*に変わり続ける
ーーーーーーーーーー

・国の教育システムに準拠しながらも、各地域の人や風土によって「ブリコラージュ(日曜大工 / あるものを寄せ集めてつくる)」されていく余白を歓迎する
・学校という組織自体も、そのメンバーである一人ひとりも、学習し変容し続けていく。いわば、「学習する学校」である
・草の根の実践から生まれた知が、他の地域や、教育制度自体へとフィードバックを与えていく
・一つの正解の教育の形にとらわれない「自律的に変わり続ける、野生的*な教育環境」である

*文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースがブリコラージュを紹介した『野生の思考』にあやかり、様々な関係性の中で創発されていく様を「野生的」と呼んでいます。

新留小学校裏手の森林公園

こうした問いかけを起点としながら、関わるたくさんの方々と共に、ふつうの学校づくりを進めていきたいと思っております。

今後の記事の内容(予定)

できる限り、毎日更新できるよう準備を進めていますので、ぜひアカウントをフォローして記事を読んだり、多くの人に読んでいただけるよう記事をシェアしたりしていただけると嬉しいです。

第1回:「ふつうの学校」作ります。設立趣意のようなもの
第2回:「小学校」の概念を見つめ直してみる(今回の記事)
第3回:食とことば とは
第4回:ランチルームとライブラリーの可能性
第5回:学び場を軸にした幸福度の高い地域デザイン〜保育園編〜
第6回:学び場を軸にした幸福度の高い地域デザイン〜小学校編〜
第7回:「ふつう」という言葉のこそばゆい感 〜これであなたもふつう通!〜
第8回:ご存知ですか、教育基本法?
第9回:小学校とは地域にとってどういう役割の装置か?
第10回:【インタビュー】なぜ、このドキュメンタリーを撮るのか
第11回:「これが教育の未来だ」というコンセプトを手放してみてもいいのかもしれない
第12回 まちづくりは人づくりから
第13回:ことばによって世界の解像度を高めよ 〜国語の先生との対話から〜
第14回:第14回:早期外国語教育は必要か?
第15回:第15回:子どもたちの「やりたい!」を実現できる学校を、地域とともに創る
第16回:学校をめぐる地の巨人たちのお話〜イリイチ、ピアジェ、ヴィゴツキーなど
第17回:コンヴィヴィアリティ、イリイチの脱学校から
第18回:これまでのプロジェクト「森山ビレッジ」
第19回:現役中学生たちの、理想の小学校
第20回:理事紹介1・このプロジェクトにかける思い

などなど。「こんな記事も書いて〜」というリクエストや、記事へのサポートもお待ちしております。

(第3回に続く)

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