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『~であるべき思考は自分を苦しめる』

世の中には、様々なルールやマナーがある。それは大人として『当然』守るべきことなんだろう。そんな風に思っていた。いや、大抵のひとはそれを当たり前に、そしてあまりにも自然に行っているのだろう。


しかし、私は程よく手を抜くことや『まぁ、いっか』と思うことがヘタだった。『こうじゃなきゃいけない。こうするべき。こうであるべき。』この『~であるべき思考は自分を苦しめる。』でもそれは、『まじめ』だともとれる。


まじめということは、決して悪いことではない。だけど、そればかりに囚われてしまうと生きづらくなってしまう。でも、世の中はそんなルールやマナーに溢れている。いや、正確には私は、そればかりを気にして生きてしまっていた。


生きる上で『他者を不快にさせない。他者に迷惑をかけない。』ということは、確かにお互いにとって必要だとは思う。だけど、そこばかりが中心の生き方になってしまうと、自分を生きられなくなる。


この『~であるべき思考』はときに、自分に制限をかけてしまう。何かやりたいこと、言いたいことがあっても、『いやいや、私は母親なんだから』『私は先輩なんだから』『私はお姉ちゃんなんだから』


だから『こうあるべき!』(赤ちゃんの我が子を育児放棄してやることは、やり方が違うと思うよ。その辺はもちろん倫理感や、責任は考えてね。)


でも、本当にそこに『~であるべき』は必要なのだろうか。そこには、やれない、やらない理由が隠れていないだろうか。自分自身が勝手に『やれない、やらない理由』を作っていないだろうか。


そこに囚われすぎて『チャンスを逃していないだろうか』その、自分に勝手に制限を与えているであろう思考は、『時として大切な何かを見失っていないだろうか。』さっきも言った私は『自分を生きること』を本当に出来ているのだろうか。


上述したように母親だから、先輩だから、お姉ちゃんだからという、ただの決めつけられた状況や環境や立場によって、自分らしさを失っていないだろうか。(責任を放棄することとは違うよ。)


本当に私は私らしく生きることが出来ているのだろうか。どこかで、見て見ぬふりをしているのではないのだろうか。環境や他者のせいにして『私は私の生きたいように生きられていないのではないか』そう思った。


自分がやりたいことに、自分自身で許可を出せているのだろうか。


そんなことに気が付いた時、私の思考はまさに『それ』だった。どんなことであっても、どんな状況であっても、それを本当に諦める理由はあるのだろうか。


やりたいことがあったとしたら、そのやりたいことの方法は決してひとつではないということ。』


たとえば、心理学を学びたい幼い子供がいる母親がいたとする。『私は、母親なんだから、今更心理学を学びたいからって、学校に行くことなんてできないし。小さい子供もいるし。そんなお金もないし。』そんな風に考えてしまっていないだろうか。そこには『こうあるべき』という考えが隠れていないだろうか。


それが本当にやりたいことであるのなら、きっと自分自身でそれをやる為の方法を探し出し、行動に移すだろう。やりたいという気持ちは、『まぁ、出来たら・・・。』というそんな程度のものなのだろうか。確かに、それがやれる時期というのもあるかもしれない。


だけど、この例で考えた時、本当に心理学を学びたいのなら、学校に行かなくても学ぶことは可能じゃないのだろうか。多額なお金を使わないと出来ないことなのだろうか。ネットを開けば、You tubeを開けば、本を買えば、学ぶことは出来ないだろうか。1日だけ子供をお願いして講習を受けに行けないだろうか。幼稚園や、保育園に行っている間に行ける、講義はないだろうか。(市や区で行っている無料や安価なものもあるよ)


自分自身が本当にやりたいことであるのなら、様々な方法を見つけて、今できる中で学ぶことはいくらだって可能なのではないのだろうか。


私は思ったんだ。自分はどんな人生を生きたいのか。幼いころ夢に見たことは、夢のままにしていないだろうか。


『願えば叶う』は願っていただけでは叶わない。自分が行動して、初めてそのきっかけや、チャンスが掴める。


そう思ったら、私に動かない理由なんてない気がした。だから、私はやる。今できる範囲のなかで、私はわたしのやりたいことをやる。


私のいまやりたいことは、私の夢にも繋がっているから。最近、私が大切にしている言葉『いつか、いつかはこない


自分のために自分らしく、自分の人生を生きるために。


この記事は、私の備忘録。(大切に思うのなら、忘れるなって話だけど笑)


今日も、読んでくださって、ありがとうございます♡少しでも、誰かの心に響いたのなら、嬉しいです(^^♪