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誰かの役に立てること

先日、ある方々が親しくもない私のために動いて下さり、感謝の気持ちでいっぱいになりました。

仕事でもなく、義理もないのに迅速に動いてくださった原動力って何だろう?そんなことについて考えてみました。


事の経緯

回復期の時、骨折で入院しているおばあちゃんと仲良くなりました。自主練がてら廊下を歩きつつ色んな話をしました。

一緒に暮らす家族は、脳疾患で麻痺と失語が残ったご主人。夫の所に早く帰りたいと毎日のように言っていました。

先に私の退院が決まり
「おめでとうって言わなきゃいけないのに‥でも寂しいから嫌だ」
そう言って泣き、退院の日には不自由な手で書いた震える文字の手紙をくれました。

退院後も交流は続き、手紙やラインでやり取りをしました。
一度だけですがお家にも伺いました。老々介護とはこうなのだという現実を見せつけられましたが、後遺症を持つ老夫婦が仲間妻じく暮らす様子に胸を打たれました。

ある日おばあちゃんから
「夫が検査入院した」という連絡をもらいまいした。検査の結果はかなり悪く手術も出来ない状態で、そのまま継続入院となりました。

「夫に会いたい」「寂しい」というラインが毎日の様に来ました。

コロナの関係上、面会は一日一回、平日のみ。車のないおばあちゃんは1人では病院に行けず、毎日ご主人に会うことは出来ません。ご主人には失語があるため電話もできない。長くはないらしいとのことで、胸が痛みました。

イベントでの出会い

その状況を聞いて何とかならないのだろうか?と悩みました。
そしてふと頭に浮かんだのが、先日参加した医療者交流会のことでした。

前回のブログに書きましたが、講演をされた中にソーシャルワーカーさんがおられました。

とりあえずおばあちゃんには「ソーシャルワーカーさんに相談してみたら?」と提案はしていましたが、入院先のソーシャルワーカーさんがこの間の講演者のような方である確率は低いだろうし…。

この状況でどんなことができるのか、どんな風にソーシャルワーカーさんに話すのが良いのか、私には知恵がありませんでした。

"何とかイベント時のソーシャルワーカーさんに相談できないだろうか?"
と思いました。

でも、単なるイベント参加者と講演者というだけです。しかも私のことでも私の家族のことでもありません。
あまりにも図々しいのではないか?色々考えましたが、申し訳ないと思いつつとりあえず行動に移してみることにしました。

私はその方の連絡先を存じ上げませんでした。なのでイベントの主催者である関西の理学療法士さんに、ソーシャルワーカーさんに繋いでいただけないか、事の詳細とお願いを書いたDMを送りました。

すると理学療法士さんはすぐにソーシャルワーカーさんと連絡を取って下さり、なんと2日後にはお電話でご相談することが出来ました。

理学療法士の方もX上のやり取りが主で、リアルでお目にかかったのは先日のイベントが初めてです。
見ず知らずに近い私の為にこうしてお二人の方が力を貸して下さったことを本当に嬉しく思いました。

お知恵を拝借できたことも勿論ですが、どこの誰とも分からぬ者に労力を惜しまない姿に、お二人の患者の為に動く原動力を見た気がしました。

誰かに手を貸すこと

X上でも目にすることがある障害者にたいする心無い言葉。
障害者の生活が、健常者の手助けや税金のもと成り立っていることを感謝するようにと促す言葉が時折見られます。

なぜなのだろう?といつも思います。
そういう人たちは誰かの役に立つことが嫌なのでしょうか?

当事者同士でやり取りをしていますが、皆、決して働きたく無い訳ではありません。でも、働く場所がなかったり働けないのが現状だったりします。

私も当事者になって初めて知りましたが、B型作業所の平均工賃は時給300円にも満たないといいます。交通費も出ないため働けば働くほど出費になることもあります。また、通学や通勤にヘルパーは使えません。
こういう事実ってどの位、世の中に浸透しているのでしょうか?

人の世話になれてラッキーなんて人に実際に私は出会ったことがありません。むしろ働きたいのに働けない、家族や他人の手を借りなければならないことに苦痛を感じているように思います。

そういう思いでいる人間に心無い言葉をかけることはまさしく「傷口に塩を塗るような行為だ」と思っています。

誰かの役に立てること

私は料理が好きです。家族のためにご飯を作ることは楽しみの一つでもあります。
でも、だれもいない平日のお昼ご飯は?というと、ご飯にふりかけやおやつで済ますことが多いです。"食べてくれる誰かのため"がご飯を作る意欲になります。
人間ってそんなものなのではないかと思っています。

今回、私がおばあちゃんのために何かをしたいと思ったこと。それは別に自分の存在価値を感じたい。そんな気持ちからではありません。
ただただ、おばあちゃんにご主人と悔いのないよう、限られた時間を過ごしてもらいたいそう思っただけです。

今回手を貸してくださった療法士さんもソーシャルワーカーさんも同じではないかと私は思っています。

見知らぬ誰かでもいいその人が少しでも笑顔になれるなら、そんな気持ちで手を貸してくださった気がしています。

障害者となり家族や他人の手を借りることに、まだまだ抵抗も苦痛も感じます。それは矛盾している感情なのかもしれません。
けれども、障害者である自分が誰かの助けになれたら、私はやっぱり嬉しいです。

今回の出来事は私に大きな何かを与えてくれたような気がします。

誰かのために手を貸すことを厭わない人がいるということ。そしてそういう方が医療従事者であることは心強いと思いました。

誰かに手を貸して欲しいと声をあげてみることの大切さ。
今回のように快く引き受けてくださる方ばかりではないと思います。でも思い切ってお願いしてみなければ何も動きません。
そして1人では出来ないことでも、誰かの手を借りることでなんとかできる可能性があることを知りました。

最後に縁を大切にすること。
これまでに療法士さんとはSNSやオンラインを通じて接したことはありましたが、先日リアルでお目にかかったことは大きかったと思います。

ソーシャルワーカーさんと療法士さん共に、実際にお会いし講演を聴き、その熱量を感じたからこそ「連絡をしてみよう」と後押しされた気がします。

今回のおばあちゃんの件、最終的にどうなるのかは分かりません。何か良い方向に進んでくれたらと願うばかりです。

でも、言えることは、おばあちゃんのために何か出来て私は嬉しかったということ。そしてそんな私の気持ちに手を貸してくださる人をがいると肌で感じられたことはかけがえのない経験となりました。

今回手を貸して下さったお二人の医療従事者の方々、本当にありがとうございました。