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社会性を脱ぐとき。

ダンスとの出会いは
子どもの頃に通っていた、ストリートダンスの教室。


どの習い事も三日坊主だったが
唯一辞めずに続けられた。

先生から教わった振り付けを覚えて、
披露できた発表会は楽しかった✨


中学と高校は、ダンスから離れていたが
大学を機にまた戻る。

音が鳴れば、即興で踊るようにもなった。

毎日、表現を磨くためにダンスに没頭する日々。


コンテストとか、順位をつけられることは嫌いだった。

「競争が嫌い」というのは、社会人になって何年か経ってから気がついたこと。

それがわかった時は、競争社会に生きてるのに、なんと軟弱な心なんだと思った。






ダンスの世界には
派閥のような、流派のようなものがあって
今思えば、なんかそういうものも気に入らなかった。
(なんで?笑)


おそらく、
“分ける”、”カテゴライズする” ことが嫌いなのだろう。

本来、何にも縛られない自由な存在である
心が信じていたからだと思う。


そういう空気感が、息苦しかった。

社会人二年目を境に仕事も忙しくなり、
夢中だったダンスから、次第に心が離れていった。





10年くらい経ったころだろうか。


心はまた、”踊り” に戻ってきた。



形や見てくれを気にせずに
誰かに見せることも意識せず
ただ踊りたかった。


たぶん、
本来私が好きなのは
こういう踊りだ。



踊りに戻って気がついたのは、
社会性が顔を出すと苦しくなるということ。


結婚もせず会社員をしている私、
●歳の私、
●●というジャンルのダンスをしていている私
ダンス歴は●年 etc…

そういう自分の肩書きを表すものなど、
人から見られること(社会性)を意識した途端
苦しくなるということ。

それに気がついた。



ダンスって見せるもんじゃねーの?
と自分では思ったけど。

あえて、そこは放っておくことにした。


だって踊りたいから。感じるままに。






それから

踊りを通して新たに発見したのは、

身体そのものが自然と動きをつくっていくこと。

こちらがコントロールしようとせずとも

身体が勝手にうねりをつくり動きを繋げていく。


無意識の身体。


これは、おもしろい発見だった。


音によっても
その日のコンディションによっても
奇想天外な動きを見せてくれるので

ますますハマってしまった。笑



身体が動きを見せてくれるのは
回路が通じているところ。 
(な気がする💡)


使わずにカチカチに凝り固まった関節や骨、
まるで神経が通っていないかのように感じる
自分の身体の一部分。

そのまわりの筋肉は力んで、緊張して、
動かそうとはするものの

他の緩やかに動くパーツと比べて
やはりスムーズでない。



古武術では
脱力することが重要と聞いたことがあるが

力むと、動力が伝わりにくいのだろうか。




力むことを強いられるような忙しい毎日だけど

本来自然である身体は、
常に力ませることは普通の状態ではないと教えてくれる。



ゆるむことができるから
ここぞというときに
力が発揮できる
のかな。




踊りを再開したことで
心も身体も緩める日々。


これからの発見が楽しみだ。



つづく、、、







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