国際男性デー 2023

11月19日 は、国際男性デー(International Men's Day) です。

国際男性デー(IMD)は、男性・男児の健康と幸福を祈念する日 です。
日本ではほとんど知られていませんが、多くの国でこの日の存在が知られています。
※ IMD について詳しく知りたい方は、
 wikipipedia(日本語版)wikipedia(英語版)も参考にしてください。

参考動画 『What are mens issues 男性の問題とは何だろう?』
(英語ですが、CCと書かれたところをクリックして日本語字幕を表示できます)

男性の生命、男性の尊厳

日本では男性と女性の平均寿命には、およそ6年半の開きがあります。この差は、戦後ずっと拡大し続けてきました(ここ数年は少しだけ縮小傾向もみられるようです)。

※ 平均寿命の男女差については、[IMD記念ミニ連載] 男性と女性の平均寿命の差について(旧ブログにて 2013年11月14日 に公開)をご覧ください。

年齢別の死亡率を男女で比較すると、15歳まではさほど差はないものの、それ以上では一貫して男性の方が高率となっています。

※ 死亡率については、[IMD記念ミニ連載] 年齢別生存数の男女差について(旧ブログにて 2013年12月15日 に公開)をご覧ください。

いずれにせよ、男性の健康問題は、実はかなり大きな問題なのではないか。そんなことを思います。
古来より、男性の身体や生命は、女性の身体や生命に比べて乱暴・粗末に取り扱われてきました。このことは、現代となってもさほど変わっていないと思います。人間社会の構造として、そうなってしまっているのですよね。もはや慣習のレベルで。無意識のうちに、そうなっているわけです。
僕としてはこのままで良いとは思っていません。

力仕事や危険な仕事は男性がやるものと決めつけていませんか。男性と見れば、「力仕事担当の人」とか「重たいものを持ってくれる人」といった目で見てくる女性の存在は、僕のような虚弱な男性にとっては苦痛です。男性にだけ力仕事をさせたり重たいものを持たせたりする、キツイ仕事を背負わせようとする男性の存在もまた同様です。(要するに、慈悲的性差別の遂行を強要されることが苦痛ということです)
もちろん、こうした仕事も必要なものなので、誰かがやらなければならないことです。でも、一律に男性のみが背負うのではなく、適性のある人を中心に、みんなで協力してやるのが本来だと思うのですが、どうでしょう。

(徴兵制を敷いている国の大半は、男性のみを徴兵しています。これも同じような構図です。国家による強制力を伴うので、より大きな問題だと思います。)

男性に対する暴力や粗末な扱いを当たり前のことだと思っていませんか。
暴力問題についての話が出てくると、「女性に対してでも手を上げる」とか「女性にでも容赦なく」とかいうフレーズを聞かされますが、これは言外に男性への暴力は女性への暴力より罪が軽い(重大な問題ではない)というニュアンスを含んでいるように思えてなりません。
対・男性であろうと、対・女性であろうと、暴力は暴力です。誰に対しての暴力であろうとも、許されざることです。
しかし、この社会にはとても根強いバイアスがあり、女からの加害を受けた男性は適正に救われないことがとても多いです。そればかりか、《4重の否認》により社会から多重加害されます。

いくらデリカシーを欠いた粗末な扱いをされたとしても、黙って耐えることを強いていませんか。何か訴えても、「男なんだからガマンしろ」の一言で終わらされるのは辛いことです。男性の性的プライバシーはあまりにも踏みにじられ過ぎています。

男性でも女性でも、生命の重さは同じです。人間としての尊厳も同じです。
僕は、「偶然にして男性に生まれたから」というだけで辛い思いをする人が、1人でも少なくなることを祈っています。

《 男性差別 》について

《 性差別 》というのが、性別に基づく差別 だとすれば、そこには《 男性差別 》と《 女性差別 》が存在していることになります。
性差別に関する研究や運動が、フェミニズムや女性解放運動とともに広まったという経緯もあり、「性差別というのは女性差別のことを指す」という認識を持っている人も、もしかしたら多いのかも知れません。しかし、僕はそれは少し違うと考えています。
男性差別と女性差別は、言うなれば コインの両面 のようなものであって、女性差別と名付けられた事象にはたいてい男性差別が付随していると思います。性差別を無くすためには、真の意味で男女平等を実現するためには、男性差別と女性差別のいずれにも対処していくこと が不可欠です。
家父長制とか男尊女卑と名付けられている非対称な社会構造は、決して男に甘いものではありません。むしろ、慈悲的性差別を遂行できるような強く逞しい男であることを強いるものであり、男性を抑圧しますし搾取します。(慈悲的性差別を受けることを望む女性は、その明確な加担者です)
既存の性役割は、良く言えばとても大雑把な適材適所・役割分担であり、悪く言えば男女間における相互搾取です。

《 男性差別 》の具体的な内容ですが、例えば以下のようなものがあるのではないかと、今の僕は考えています。

1.生命が軽んじられていること(危険な仕事への従事,徴兵等)
2.犠牲や我慢を強いられること(救助での優先順位,レディファースト等)
3.体力的に女性より高水準であることを期待されること(たとえ一般的な女性より非力な男性でも、体力強者としての役割を強要される)
4.経済的に女性より高水準であることを期待されること(たとえ経済的に恵まれない男性でも、経済的強者としての役割を強要される) 
5.物理的 / 精神的暴力やハラスメントの被害男性が救済されづらいこと
6.性的羞恥心を軽視 or 無視されること(更衣室が無い,裸の強制等)
7.法律や制度の不均衡があること(父子家庭や寡夫の扱い等)
8.自動的に〈加害者〉認定されて排除されること(女性専用○○等)


数はきわめて少ないものの、男性差別や男性問題のことを取り上げた書籍などを見ると、概ねこうした問題に触れられているように感じます。例えば、我が国における男性学の先駆となった、渡辺恒夫の『脱男性の時代』では、【1.生命が軽んじられていること】や【2.犠牲や我慢を強いられること】についての言及が見られます。國友万裕の『マッチョになりたい!?』では、第1章 マスキュリズムと男性差別 において、【3.体力的に女性より高水準であることを期待されること】に関する記述がみられました。

インターネット上では、【4.経済的に女性より高水準であることを期待されること】や【8.自動的に〈加害者〉認定されて排除されること】に対する声が大きいようです。特に、商業施設等における女性限定サービスの実施や、鉄道車両における女性専用車両についての言説は目にすることが多いです。より広範な人々にとって、身近かつ当事者性の強い問題だからでしょうね。

DVや性的虐待などの男性被害者についても、以前よりは少しは配慮されるようになってきたようです。マスコミで取り上げられることもあります。しかし、【5.物理的 / 精神的暴力やハラスメントの被害男性が救済されづらいこと】や【6.性的羞恥心を軽視 or 無視されること】の問題は、かなり根深いと僕は思っています。

また、【7.法律や制度の不均衡があること】については、時折ニュースを目にすることがあります。少しずつですが、改善されていく方向にはあるようです。男性側がとても不利となっている親権の問題についても、共同親権の実現に向けた議論が加速していきそうな状況が見られます。

1.から8.まで、もちろんどれも大切な問題です。ただ、人によってどこにより重点を置くかは変わってくるかもしれません。
僕の場合は、体力に関するものや心身の健康に関するものに最も重点を置いています。【1.生命が軽んじられていること】や【3.体力的に女性より高水準であることを期待されること】や【5.物理的 / 精神的暴力やハラスメントの被害男性が救済されづらいこと】ですね。また、性的羞恥心の問題(【6.性的羞恥心を軽視 or 無視されること】)についても、同じくらいの力をかけています。

《 男性差別 》についての研究は、我が国においては、まだまだこれからだと思います。既に《 男性学 》と名付けられた学問はあるのですが、残念ながら不十分なものだと僕は考えています。
既存の男性学や男性運動は、所謂、〈 メイル・フェミニスト 〉たちによる運動が大半という印象があります。かれらは女性問題には強い関心を示す一方で、男性問題に対しては関心を持たず、むしろきわめて冷酷です。言い換えれば、男性の加害者性と女性の被害者性の部分にのみ着目していると言えます。ところが実際には、男性にも被害者性があり、女性にも加害者性があります。被害と加害はコインの両面のようなものだからです。したがって、男性の被害者としての側面や、男性の苦しみにも着目していくことが求められる と思うのです。
(同時に、女性の加害者としての側面についてもスポットを当てていかなければならない。ここが最後の砦として残されるでしょう)

マスキュリズムとは?

男性の被害者としての側面や、男性の苦しみに着目していく思想や運動も、西欧や米国などにはすでに根付いているようで、マスキュリズムとよばれています。

マスキュリズム(masculism) とは、男性に対する性差別(男性差別)の撤廃を目指す思想・運動 を指します。

よく、フェミニズムの《 対置概念 》とされますが、僕は、《 並置概念 》と言いたいと思っています。

男性解放運動と女性解放運動は車の両輪です。マスキュリズムとフェミニズムも車の両輪です。片方だけでは、脱輪してしまいます。必ず、揃っていなければならないし、揃っていてこそ意味があるのだと思います。
別の喩えをすれば、マスキュリズムとフェミニズムは、酸性とアルカリ性 みたいなものなのかもしれません。酸性の 塩酸 と アルカリ性の 水酸化ナトリウム水溶液 を混ぜ合わせれば中和されて、中性の 塩化ナトリウム(食塩)水溶液 が出来ます。塩酸や水酸化ナトリウムが劇物であるように、マスキュリズムもフェミニズムも、単体では劇物だと思います。しかし、混ぜ合わせることで中和されて無害・有益なものになることでしょう。

マスキュリズムが宿命的に抱える困難さ ~マスキュリストはマイノリティ~

フェミニズムとマスキュリズムは対置概念(あるいは並置概念)ですが、双方の間には歴然とした力の差があります。
マスキュリズムは、宿命的にきわめて大きな困難を抱えているのです。
第1に、影響力が圧倒的に違います。フェミニストと比べて マスキュリストは圧倒的にマイノリティ です。
これは、「フェミニズム」という語と「マスキュリズム」という語の社会での認知度を考えれば、明らかでしょう。あるいは、刊行された書籍の数を見てもその差は歴然としています。また、「国際女性デー」が記されているカレンダーは見かけますが、「国際男性デー」が記されているカレンダーを見たことがありません。フェミニズムは行政にも大きな影響を与えていて、多くの自治体が施設を建設したり、政策を実行したりしています。それに対して、マスキュリズムはまず存在の認識すらされていないのが現状です。
第2に、理解の得られやすさが異なります。男性の被害 と 女性の加害 は、逆の場合と比べて格段に理解されづらい のです。
「女性はか弱く、保護しなければならない」との素朴な社会通念が存在しています。女性の被害 と 男性の加害 については、この通念と適合しますので、ごく自然に理解できる人が殆どでしょう。ところが、男性の被害 と 女性の加害 の場合は通念と適合しないため、どうしても違和感を持ってしまう人も多いのだと思います。
第3に、所謂“正しさ”の縛りがあります。マスキュリズムの考え方そのものが、“正しくない”ものとしてバッシングを受けることがある のが現状です。
教条主義的なフェミニズムや、その主義・思想を土台としたメンズリブなどが、性差別やジェンダーの問題への取り組みのマジョリティとして、大きな影響力を持ちました。そのため、「女性が被害者であり、一方的に男性から支配・抑圧されている」或は「男性は加害者であり、一方的に女性を支配・抑圧している」というイデオロギー が、“正しい” ものとして根付いてしまいました。これを前提とすると、男性の被害 や 女性の加害 に着目するマスキュリズムは、その存在そのものが正しくないということになってしまうというわけです。

また、男性の身体や生命を女性と比べて乱暴・粗末に取り扱うことや、慈悲的性差別を遂行することなどに関して、保守派とリベラルが "一枚岩" となってしまっている現状があります。これは、リベラル側の振る舞いがおかしいと言わざるを得ないと思っていますが、マスキュリズムの主張をしていくことは完全な四面楚歌状態に身を置くことを意味しています。

こうしてみてみると、マスキュリズムとは極めて困難な荊の道であると改めて思わざるを得ません。しかし、その必要性を疑う余地は無いと思います。社会はじわりじわりと変化していきます。その中で、一歩ずつ前進していくことを願うばかりです。

最後に、マスキュリズムについて情報を得たい方のために、参考となる書籍やwebサイトをご紹介します。




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