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【人物史】怪僧グリゴリー・ラスプーチン

1.はじめに

最近、連日のように政治と宗教の話題がニュースで取り上げられていますが、帝政末期のロシアにおいても政治に多大な影響力を及ぼした宗教家がいました。言わずと知れたグリゴリー・ラスプーチンです。ラスプーチンは「怪僧」とも呼ばれ、その活躍からフィクションでもよく題材にされる存在です。今回は、ラスプーチンの生涯と彼が末期のロシア帝国にどのような影響を与えたのかを見ていきたいと思います。

グリゴリー・ラスプーチン(1864-1916)

2.「神の人」

1864年、ラスプーチンは西シベリアのトボリスク近くのポクロフスコエ村で生まれました。ラスプーチンは農民の子でしたが、少年の頃に村を出て、近くのヴルホトウリィエ修道院に身を寄せたのち、長い巡礼の旅に出ました。

ラスプーチンは巡礼する中で、宗教家としての特質を示すようになりました。ただし、ラスプーチンの精神的背景にあるのは、正教会の伝統というよりも、神秘主義的な「鞭身派(フリスティ)」という新宗教に近いもでした。さらに、催眠術をも身に着けて信者を増やしていきました。

大勢の人々がラスプーチンを慕うようになると、クリサンフという正教会の修道院長までも彼を信じるようになりました。クリサンフはラスプーチンを首都へと連れていき、ペテルブルク神学大学の学長フェオファンに紹介しました。フェオファンもラスプーチンを気に入り、彼を貴族たちに紹介しました。

写真中央がフェオファン、右がラスプーチン

当時の貴族たちの間では、神秘主義やオカルト、星占いが流行っていました。シベリア出身の「長老」を名乗るラスプーチンに魅力を感じた貴族たちは、その霊的な能力で病気の治療を行う彼を「神の人」と呼んで崇拝するようになりました。

3.宮廷へ

フェオファンが主教になると、ラスプーチンは宮廷ともつながりを持つようになりました。フェオファンにツァーリの叔父ニコライ大公を紹介され、さらに彼を通して皇后アレクサンドラと出会いました。

皇后アレクサンドラ(1872-1918)
ドイツのヘッセン大公の娘。母方の祖母は英国のヴィクトリア女王
ニコライとの間には四人の皇女(オリガ、タチアナ、マリア、アナスタシア)とアレクセイをもうけた

当時のアレクサンドラの悩みは、皇太子アレクセイの病気でした。アレクセイは1904年7月に生まれた夫妻にとっての待望の男子継承者でした。しかし、アレクセイは曾祖母ヴィクトリア女王からの遺伝で、血友病(血液が凝固せず、出血が止まらなくなる病)を患っていました。血友病は当時「死の病」として恐れられており、皇帝夫妻は皇太子の病を極秘扱いとしていました。

ラスプーチンはその霊的な力で、アレクセイが負傷した際の激痛をやわらげ、出血をとめたと言われています。どのような方法であったかは不明ですが、いつ起こるかわからない発病に怯え、苦しみに疲れ果てていたアレクサンドラにとって、ラスプーチンはまさに「神が遣わした救世主」にほかならず、アレクサンドラはラスプーチンを信用し、親密な関係になりました。

写真中央がラスプーチン、彼の左にいる帽子を被った男児がアレクセイ

ニコライ2世も皇后を通じてラスプーチンと出会いました。彼もまたラスプーチンに強い印象を受け、皇帝夫妻はラスプーチンとの関係を深めていきました。

4.ラスプーチンをめぐる攻防

しかし、ラスプーチンの評判は芳しいものではありませんでした。彼の見苦しい酒盛り、あるいは不道徳な行為について、大臣たちから厳しい意見が寄せられました。ラスプーチンは婚姻外の性愛に肯定的であり、女性信者との不品行の噂が絶えませんでした。このような人物が宮廷に出入りすることは、皇室にとってスキャンダルに他なりませんでした。

ラスプーチンと女性信者たち(1914年)

首相ピョートル・ストルイピンは、ラスプーチンを一時シベリアの故郷へと追放しました。ニコライの母マリア皇太后も王朝を破壊しかねないと案じていました。しかし、ニコライは「イエス・キリストも誤解された」といってラスプーチンをかばいました。

1911年、聖職者たちがラスプーチンを糾弾し、翌年にはオクチャブリストのアレクサンドル・グチコフが国会で彼の問題を持ち出しました。さらに、ストルイピンの後継者ヴラジーミル・ココフツォフも怪僧を退けようとしました。しかし、1912年10月、出血が止まらなくなったアレクセイの危機を再びラスプーチンが救いました。皇帝夫妻は周囲の意見に耳を貸さなくなり、アレクサンドラはラスプーチンを救うために政治介入も辞さない決意をしました。

5.暗殺

1914年6月、第一次世界大戦が勃発しました。ロシア軍は8月のタンネンベルクの戦いでドイツ軍に大敗し、さらに翌年春にはポーランド戦線が総崩れとなり、大退却となりました。ニコライ2世は、ラスプーチンの賛同を受け、最高司令官のニコライ大公を更迭し、自らがその職に就任しました。

戦場のニコライ2世
馬上でイコンをかざして将兵を祝福している

ニコライがモギリョフの総司令部に引きこもると、皇帝不在の間、ラスプーチンは皇后を巧みに操り、政治に介入するようになりました。ラスプーチンはわずかの間に、首相、内相、農相、陸相など21人の閣僚を気まぐれに罷免しました。

この政治的混乱によって、総力戦を支えなければならない政府は完全にマヒしてしまい、さらに、ラスプーチンはドイツのスパイであるという噂が流れました。11月には、立憲民主党の議員パーヴェル・ミリュコーフが再開された国家ドゥーマの冒頭で「愚行なのか裏切りなのか」という政府批判演説を行い、皇后がドイツと内通していると公然と批判しました。この演説は、ラスプーチンは皇后の愛人であるというさらなる流言飛語を生みました。

皇帝夫妻をラスプーチンの傀儡として描いたポスター

皇太后と皇族は、皇后とラスプーチンの関係を断つようにニコライに求めますが、彼は耳を傾けようとしませんでした。

こうした中、ラスプーチンを排除しようとする動きが出てきました。1916年1月、ラスプーチンによる人事に不満のあった内務大臣アレクセイ・フヴォストフが彼の暗殺を企てましたが、露見して失脚しました。

次に暗殺が計画されたのは、その年の12月でした。16日の夜、皇帝の姪を妻とするフェリックス・ユスーポフ公爵は、ラスプーチンを自身のモイカ宮殿に招きました。

フェリックス・ユスーポフ(1887-1967)

ユスーポフはラスプーチンに青酸カリ入りの酒を飲ませ、彼の胸めがけて銃を発砲しました。しかし、それでもラスプーチンは死ななかったため、ユスーポフは彼をロープで縛り、凍結したモイカ川に開けられた氷の穴の中に投げ込みました。こうして「神の人」とよばれた怪僧の人生は幕を閉じました。

6.まとめ

アレクセイの治療によって、皇帝夫妻はラスプーチンを心の拠り所としましたが、これは全く良い影響を及ぼしませんでした。特にラスプーチンが皇后の愛人であるという噂は、皇帝の権威を大いに傷つけました。ラスプーチンの暗殺を実行したのは皇帝の縁戚にあたるユスーポフであり、また、この計画には皇帝の甥ドミトリー大公も加わっていたことから、皇族の大部分がこの企てを支持していたことがわかります。皇帝夫妻は完全に孤立してしまっていたのでした。

ラスプーチンの暗殺後も、帝国の危機的状況は何も変わりませんでした。ラスプーチンによって政治が混乱させられた間に、輸送網はマヒし、前線の兵士や一般市民への食糧供給は困難となっていました。こうした国内危機は、文字通り帝国に破局をもたらすこととなりました。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考


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