無白の囚人―心の行方―

 虚しい荒野の中を彷徨う囚人に、誰かが手を差し出す。その手は優しく温かい。囚人の心を覆う氷が溶け掛けようとしていた時、世界は静かに動くのを止めた。
 囚人は自分を嫌う。惨めな自分を、愚かな自分を、思い出に囚われている自分を。そして――素直になれない自分を。
 だから世界は動かない。だから足枷は外れない。だから心はいつも彷徨っている。

 止まっていた時間が動き始めた時、あなたはあなたのままでいられるのだろうか。
動き出すその感情は本当に「現在」のモノなのだろうか。
 人とは過去に生きるもの、ならば動き出した感情はきっと「過去」からの贈り物だ。その感情に身を―心を委ねていいのだろうか? 確かにそう感じているのは現在かもしれない。 
 しかし根本は現在ではなく、過去のもの。いつかの思い出に委ねて良いのだろうか? それで自分は満たされるのか? もしその過去から産まれた感情が薄れた時、今までのままでいられるのか? きっとそのままではいられない。結局は歪んでしまう。永遠に一緒なんてありえない。いつかは終わるのだから。
 でも私は「心のままに」と、そう願った。そうあろうとした。だがふと振り返るといつもその足には足枷が付いている。心はいつもどこかをふわふわ浮かんでいた。鎖に繋がれて、彷徨っている。
 そもそも、私にはこの感情自体が分らない。この感情は本当にあなたの元に繋がっているのか? 思い出がそうさせているだけではないのか? あの日と同じように虚しくて、苦しい。そう感じるのもきっと私の心があの時から止まっているから…。

 誰もが幸せな未来を描く中、私の筆は止まったままだった。誰かが自分を迎えてくれる場所、それが幸せなのだろうか? その人が自分の愛する者ならば、それはきっと素敵なことだろう。気が付けばいつも隣にはその人が居て、苦しい時も、嬉しい時も分かち合い、何倍にでもしていくだろう。
 でもそれが許されるのは「心のまま」である人だけ。「心のまま」であるからこそ、誰かを本当の意味で幸せにすることが出来る。悲しみも苦しみも共に分け合い、支え合い幸せとなる。そう「心のまま」に「素直」になること。それはどちらも私に欠けているもの。
 そんな私が幸せになる権利があるのだろうか? 心のままに生きられない者は誰かを傷つけるだけ。誰かが私を信じても私が信じていないのであれば意味がない。幸せなど、ありえない。
 私は幸せを手に入れるために、苦しみたくはない。幸せの為の苦しみは別にいい。
だが「幸せ」を本当の意味で実感するのはいつも物事の終わりだけ。過ぎ去ってからしか得られない。過ぎ去った過去には痛みしかない。
 幸せの数だけ痛みを抱えて、過ごした月日だけ痛みが増す。幸せの代償はあまりにも大きすぎる。幸せに気付くための苦しみを私達はいくつ抱えればいいのだろう? 

「好き」の定義とは何だ。「愛している」の定義は何だ。あの日の私ならばきっとその解答を持っていたのだろう。だが今の私にはその解答は持っていない。
 小さな幸せを共有したいと思う相手、無意識に思い浮かぶ顔、安らぎを得られる人。私には何も分らない。そんな質問をされても、私には「いる」「いない」の前に分らない。
 「好き」、そう口にするたびに私の何かがすり減っていく。
 「愛している」、そう口にするたびにその言葉から何かが抜けていく。
 言葉を口にするたび、私の胸が苦しく、虚しくなる。いつかその言葉を伝える相手は移り変わってしまうのだろう。いつかその言葉を伝える相手はいなくなるのだろう。本当の意味でその言葉が相手に届く事は無いのだろう。
 ならばいっそ口にしなければいい。その想いはすべて私の中だけに留めておこう。言葉にしない気持ちは無かったことと同じなのだから、こんな感情はきっと私には存在しなかったのだ。
私は寂しくはない。
私は悲しくはない。
私は――苦しい。
私は――虚しい。
 「心のまま」であれば、きっと私はこうして苦しむこと、虚しく思うことは無かったのだろう。相手の為と言い自分を誤魔化し、あの人を遠ざけ約束を破った愚かな私の当然の報いだ。
 今思えば、あの人は強かった。それを心のどこかで理解したからこそ逃げたのだろう。弱い私はその人の隣にいる資格があるのか、そう思うと自尊心が傷つけられた様な気がしていたのかもしれない。
 やはり私は弱い人間だ。ならば私はこの苦しみも虚しさも抱えよう。自ら背負ったものくらいは。

 どうして人は他人へと踏み込むことが出来るのだろうか。自分に自信があるから? 後悔を恐れていないから? いや、きっと後悔を苦と感じていないのだろう。思い出を思い出で塗り替えるから、後悔さえも幸福に塗り替えられてしまっているのだ。幸福を手に入れることが出来れば人は後悔から解放されるのかも知れない。
 だが、私は後悔をし続けることを選ぶのだろう。なぜなら私はそう言う生き方しかできないから。自分を守るので精いっぱいだから、他人の事など手に負えない。
 どうしてそんなにも後先考えず「心のまま」に行動が出来るのだろうか? 私は私がどういう人間かを知っている。自分の心がどれほど矛盾しているのかを。自分が理性のない獣なのかを。自分がどれほど他人に嫌われているのかを。
 ましてや、自分を愛せない者が他人を愛すること自体がおこがましい。
 数を重ねれば、自然と自分を偽るのはうまくなる。また他人を欺くのもうまくなる。偽って欺かれ、それの繰り返し。
 それを人は「経験豊富」という。経験することは大切なことなのだろう。互いに満たされる為にも。
 だがそれも「心のまま」であるから出来る事。「心のまま」であるからこそ次に生かそうとする。
 ならば心が折れてしまった私は? 立ち直り方を間違えた私は? 道を外れた者には分らない。
「経験」と言い換え上書きした「後悔」。私にはいつまで経っても「後悔」は「後悔」でしかない。「昔のこと」と言い切り捨てたあの人は私にとって「戒め」でしかない。
 故に私は結論を得られない。私がどうしたいのかもわからないのだから。


 過去に囚われた壊れた心は幼いまま、大人ぶったその瞳はいつも終わりだけを見据える。
 足枷をつけたまま見つかるはずのない月を探す。


「いつか終わってしまうから」


そう自分に言い聞かせて。

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