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両親 4.私の誕生~小学生時代

 話は戦後だ。父の実家は、事業の大半を大陸で行っていたので、敗戦とともに、殆ど全てを失い、祖父は事業を辞め、道後の家に引っ込んでしまった。尤も、政略(?)結婚は相変らずで、その後、下の娘(つまり私の叔母)3人は、それぞれ、松山ではよく知られた事業家に嫁いだ。

 母の実家は、公職追放により、市長は辞めたが、事業では、真珠の養殖、ホテル、倉庫、信用金庫などを手掛け、それなりだったようだ。後に、叙勲で、東京に出て天皇陛下に拝謁した時の、満足そうな表情を今も覚えている。92歳で亡くなるまで、現役だった。

  当時、父は大企業とは言え、普通のサラリーマン、戦後は食糧難だったはずだが、何かに困ったとの話は聞いたことが無い。両方の祖父が何らかの援助をしていたのか、あるいはそれなりに苦労したのかもしれないが、今となっては本当のことは分からない。

 終戦後、1年余り、私が誕生した。男の子ということで、○○家7代目と言われたが、その実、サラリーマンの家庭だから、あまり意味はない。 それでも、大事にはされたと思う。数年後、父は広島から東京に転勤となり、以降、私は結婚するまで東京で過ごすことになる。

  姉は普通に公立の小学校に入ったが、私は吉祥寺の某大学付属の小学校に入れられた。そのまま大学まで行けるから将来に保険をかけたつもりだったのだろうが、そうはいかず、諸々の問題があり5年生で近くの公立小学校に転校した。因みに安倍元首相はあの小学校に入り、そのまま大学に進み、卒業したようだ。

 父は、育ち故か、戦争体験(?)からか、「先はどうなるかわからないから、今を楽しむ」主義で、それを亡くなるまで徹底した。母にも、好き放題にさせ、母もそれに応えて好き放題に頑張った。

 私が小学生の頃は、世田谷の社宅に住んでいたが、ある時、母の実家宇和島から住み込みのお手伝いさんが来た。高校卒業したばかりだから家事見習いのつもりだったのかもしれない。このお手伝いさんは絵や音楽が好きで、上野の西洋美術館でゴッホ展が開催されたとき、姉と私を連れて行ってくれたことがある。入場を待つ長蛇の列と、ゴッホの絵の強烈な印象が残っている。

  母は、前から外出が多かったが、お手伝いさんのお陰で拍車がかかった。私が物心つく前から、お能をやっていて、よく、着物を着て出かけた。ばりばりの観世流で、それなりだったらしい。一度大曲の能楽堂に連れられたこともある。意味はさっぱりわからないが、雰囲気は好きだった。今思えば、お能は男の芸だということで、私にやらせたかったのかもしれない。

  その後、中学1年の時に、田園調布に家を買って転居したが、リビングに隣接してお手伝いさんの部屋を増築して、母の出歩きの準備は怠りなかったことを覚えている。

 

 追:ヘッダーは上野の国立西洋美術館

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