病めるときも、貧しきときも。
健やかなるときも、病めるときも、
富めるときも、貧しきときも
相手を愛し、敬い、
慈しむことを誓いますか
いまはやっているか分からないけれど、以前、ぼくが参列した結婚式では、神父さんがこんなことを言って、夫婦に誓いを立てさせていた。
それを聞きながら、つねづね思っていた。
「健やかなるときや富めるときはいいけど、
病めるとき、貧しきときが大変だよなあ」と。
ぼくたち夫婦は、結婚して四年になる。
いろいろあって、結婚式はできていない。
誓いを立てなかったからか、結婚生活は想像以上に大変だった。
おおむね「健やかなるとき」だったけれど、「富めるとき」のほうがなかなかつくれず、しばしば、ひどい言い争いになった。
焦り。憤り。落ち込み。絶望感。無力感。
「富めるとき」にできないばっかりに「健やかなるとき」さえ危うくなりかけた。
夫婦どちらかが、どうすればいいか分かっているとき、物事を進めるのは易しい。けれど、どちらもどうしたらいいか分からないこともある。「富めるとき」のつくり方は、残念ながらそれで、分かっているつもりだったことすら、不調に終わることが多かった。
それでも、ここまでなんとかやってきた。
「もうダメだ」という時も数えきれないくらいあったけれど、それでも踏ん張ってこれたのは、けんかが続く中でふっと「なにがあっても、この人と生きていく」と決めたからのような気がする。
それは愛情のようなロマンチックなものではなく、半ば意地だった。
けれど、そう決めたことが、揉めている局面で堪えたり、もう一度向き合ったりする力になった。
誓いというのは、そのような形で効力を発揮するのだ。
人生の大先輩である橋本久仁彦さんは、こないだ、温泉に浸かりながら
「そんなふうに誓いを立てるのは、
神にでも誓わなければ
やってられないほど大変だからだ」
と笑いながら言った。
若輩者のぼくにも、わかるような気がした。
結婚、いや、結婚にかぎらず、他人と本気で向き合い、関わっていくのは、本当にエネルギーのいることで、神様の後押しでもなければやってられない。
どうなるか分からないことに立ち向かっていくときには、勇気のほかに強い神頼みのようなものが必要なのだと、ぼくは思う。
昨晩、奥さんとビデオ通話で話をしていたら、急に
「ああ、この人と生きていくんだなあって思った。」
と言われた。それから、いろいろなことが不安すぎて、四年間、結婚にコミットできなかったと語ってくれた。
それは、彼女からの「誓います」という宣誓のようにきこえた。
状況は以前とそう変わっていなかったから、不安がなくなったわけではない。それでも、そんなふうに言ってくれたことがうれしかった。
たぶん誓いというのは、先の見通しが立ってからするものではないのだと思う。
なにが起こるかわからない。
病気になるかもしれない。貧しくなるかもしれない。
そのほか、いやなことがいろいろ起こるかもしれない。
それでも
「相手を愛し、敬い、慈しむことを誓いますか」
この問いに対し「過去こうだったから」とか「論理的に分析して」というのは通用しない。
「はい、誓います。」
が先なのだ。それが、人に力を与える。
という本当だか妄想だかわからないようなことを書いてきたけれど、一つ実感として思うことは、健やかなるとき、富めるときだけよりも、病めるとき、貧しきときを乗り越えた関係のほうが強い、ということ。
もしかしたら、そのために「富めるとき」の達成を遅らせているのかなあとぼんやり考えたりもするが、そんなこと言ってるとまた叱られそうだから、このへんでやめておく。
でも、そろそろ、やれていなかった結婚式をして、ちゃんと誓いたいね。
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