2021/01/12

自分が書いているものが、随筆である。と改めて確認してみる。筆が進むままに書くなら、本当に筆が進むままに書くのなら、自分の意思のコントロールはいらない。

何を書くかも指定できない。

どのぐらい書かれるかもわからない。

随筆、と書くとあたかも自分の中にある心とか、不思議なものを想像してしまいやすい。確かにそれはあるのだが、あると考えてもいいのだが、本当に「ただ書く」ということを考えるなら、「随」という字に何が含まれて何が含まれないのかを考えてみてもいい。

たとえばもっと具体的に、この文章はキーボードで打っているのだから、「随キーボード」といえそうな気がする。この単語は以後も使いそうだから、パソコンに辞書登録しておこう。……登録完了。

随キーボードである。筆ではなく。万年筆で書くなら、随筆とギリギリ言えるかもしれない。鉛筆なら、もちろん筆とあるが、「エンピツ」とカタカナで書くなら、「随ピツ」かもしれない。音声入力だったら? 随筆とはいえないので、随声(ずいせい)かねえ? いやでも声と、音声入力でいっている言葉は違う。音声入力で文字を入れるとき、私たちははっきり言葉を話す。歌を歌うような声ではない。だから、つぶやくとも違う。演説だといいすぎる。

何が言いたいのかよくわからなくなった。しかし、こうやって具体的に書いていくと、文章にある「幻想」のようなものがみるみる溶けていくのがわかる。たいてい、文章というものは変な人が書くとか、意識が高い人が啓発的に書くとか思われがちだ。私もそう思っていた時期もあったが。しかし、随キーボードをしていると、そんなことはないとわかる。

キーボードのボタンを押すだけで、文章はかける。詩は書ける。小説は書ける。

ああああああああああああああああああああああああああああああああああ……

みたいな詩は考えずに書くことができる。私たちは、コチコチとボタンを押す。けれども、キーボードのそういう振る舞いを見ていると、静かな言葉の裏には叫びがあるのではないか。キーボードは叫びたい。むしろ、このボタンを、整列するアルファベットの板を取り払ったところに、純粋な電気信号が流れていると思うと、そうしたくなる衝動を抑えられない。どんな叫びがそこにあるのか。「あ」も「い」も「う」も「え」も「お」も全てが混ざった叫びにもならない叫びが、キーボードの裏にある。気を抜いて指を置いたままにしていると、キーボードの叫びに飲み込まれる。

だから、キーボードで書くのには何かから逃げるようなスピード感がある。筆の場合、インクが染みるのを待つ書き方をする。しかし、キーボードには「待つ」という概念がない。ボタンを押しているから、言葉をトリガーしているように感じられるが、それは見た目上の話。実際は、「ああああああああああああああ」の叫びを、瞬間的に表示させているだけ。紙の上に染みていく「筆でかく」言葉とは根本的に違う。それは、書かれるのを今か今かと待ち構えて蠢くものであるし、そのまま解放してしまったら意味を失って、爆発していく何かである。

というわけで、キーボードで書かれたと思われるいかにも「綺麗な言葉」をみると、その背後にある「ああああああああああああああああああああ」を想像して不思議な、ひょっとしたら笑いたくなってしまうような気分になる。気づいていながら「綺麗な言葉」を書いているのかそれとも、叫びに気がつかないまま呑気に書いているのか。

逆に、背後にある「あああああああああああああああああああ」の迫力に飲まれているのか、読む人に向けて書いているというよりも、逃げるように素早い言葉の走りが転がっていることもある。最後には「ああああああああああああああ」に飲み込まれて、前のめりになって転んでいるような感じになる。私はどちらかというとこのタイプの文章を書きがちだな。まあ、しかし、この方が私にとっては気が楽だ。キーボードの上では走ってしまう。恐る恐るキーを叩きながら、今にも叫び出したくなるものを抑えながら。

気持ちいい瞬間がある。キーボードの裏の叫びと、私の中の叫びが一致するとき。そんなときは文章が読まれているかいないかなど関係がなくなる。指が痛いほど走り出す。そんな感情で文章を書いたら、それこそ何を書くかわからなくて怖いのだけれども、そのスリルをわかってて、突き進む感覚もまた良い。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!