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【生涯の愛を誓う左手薬指に”手縫いのステッチのタトゥー”をいれた話/その効果と、それからの話】

こんにちは。ファッション・デザイナーです。

約4年前、2020年。
結婚指輪をはめる場所、左手薬指に、
手縫いのステッチのタトゥーを入れました。

「生涯、服飾に身を捧げる」
という意味を込めて。


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2020年、服を作ることで生計を立てるようになって5年。


僕は当時、色々なことに嫌気がさしていた。

今でこそ、「手縫いのステッチ」は有名ブランド、ハイブランド、個人ブランドと、あらゆるブランドがやるようになってる、そもそも、何十・百年前から普遍的な技法で、リペアされたヴィンテージアイテムに関心がある人なら、誰もがファッションとして取り入れるきっかけのある技法だ。




ただ、僕がブランドをはじめた8~5年前あたりでは、ファッションのディティールとして一貫して取り入れてるブランドは少なく、それを取り入れるイコール、他ブランドと比較され批評されることが多かった。自分がこの技法を、ブランド立ち上げ時から一貫して取り入れていることを知っていて、かつ、立ち上げ期から取引していたオーナーから数年経ったあと「もうその技法を使ったアイテムは納品するのはやめてもらえませんか」と直接言われた時、たしかに思った。絶対にやめないぞと。

そして、
自分のブランドが立ち上げ時から現在まで一貫して行っていた技法の「手縫いのステッチ」を
「生涯の愛を誓うため」の場所である「左手薬指」に刻んだ。

それは、一種の反抗心と、自分自身への約束みたいなものだった。
俺はやめないぞと。
作ることも、自分が選んだ技法をやめることもやめない。
たとえ売れなくなっても、業界に冷めた目で見られても、孤立しても、やめない。
その意思表明だった。
それは、他人に向けてではなく、くじけてしまいそうな自分自身に対してだ。

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僕は、服を作り続けてた

病める時も 健やかなる時も
富める時も 貧しき時も
変わらず服を作り続けていた

誓いの言葉を交わさなくとも
好きなときも、嫌いなときも
楽しいときも、めんどくさくて仕方ないときも
愛おしいときも、憎しくて仕方ないときも
人生最上の幸福なときも、死にたいときも
放棄せず、別れず、あきらめず
ここに向き合い続けてきた

僕は、自分の”ブランド”というものに対して
「自信をもって価値あるものだ」といつでも言い切れる反面
「自分にはこれしかないこと」に何度も鬱屈していた

ファッション関係の人や取引先に
「松田さんは服好きですか?」と聞かれる度、
「好きとか嫌いなんて次元のものじゃない」と答えてた

そして「好き」や「目的」で何かをやってる人間よりも
習慣や執念じみたものでやってる人間の方がよっぽど強力なエネルギーがあるだろうと
そんなこんがらがった自負さえ、たった一人で肯定していた。

本当は、「好きか」なんて、聞かれるのも答えるのもイヤで仕方なかった。
今思えば、そういう態度と余裕のなさで色んな人にイヤな思いをさせてただろうなと反省する。

実質、僕は一度も「消費側の立場」で服を好きになったことはないかもしれない。
でも、制作側の立場で測ったら、
自分ほど、服のことを愛し続けてる人間はいないとはっきり言い切れた。

でも、こんなこんがらがった感情がわかるのは自分だけだな、とも思った。
わかりやすさのない人間だ、と思った。

けれど「作ったものの魅力を伝えるためにわかりやすくすること」は大事でも、
「”自分自身”の複雑な場所を削り取ってわかりやすい部分だけに彫刻すること」は
瞬間的な反響という効果を生んでも、モノづくりをして生きる人生としては
自分の好き嫌いや執着、コアな感情をどんどん忘れさせていって
ものすごく平坦なことしか思えなくなって、作れなくなっていく
長期的に見るとかなりマイナスなことだとも、思っていた。

せめて自分自身には、そんな入り組んだ自分をちゃんと可視化させて
いつでもアクセス出来るようにする必要があると思った。

誰かに見せるため、表明するためじゃなくて、
自分自身が自分で見つめ、納得するため、思い出すため、立ち返るための装置。
誰に何を言われても、ブレる必要はないんだと
ブレてしまう弱い自分を自覚してるからこそ
精神力を、事実で強化するために
それが、タトゥーの効果だ。
それが、必要だったし、それは、そのあとの僕にとって、たしかに効果を発揮した。

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結婚した方が、仕事が出世するようになる、なんて通説をよく聞く。

不思議と、こんな誓いのリングを左手薬指にハメてから
鳴かず飛ばずのブランドは起死回生で東コレに初エントリーして、
海外メディアに掲載され、多額の借金の返済が出来て、
スペインのジャパンエキスポに御三家ブランドと肩を並べ展示される機会を得るようになった。


月額4万のボロアパートを家賃4ヶ月滞納しながら
それでも意地を張って服を作ってたときと比べたら十分な出世だ、と自分で思う。

ボロアパート時代

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兼高かおる、という女性がいる。

彼女は、日本における海外旅行・自由化以前の1959年から1990年までに放送された旅番組にて、自ら旅におもむいて、現地を取材して、衣装調達や予算管理なども全て自分でやっていた、生粋の旅人・ツーリストライターである。


彼女は、自著『わたくしが旅から学んだこと』で、こう書いている。
「人生。最初の3分の1は、あとで世の中の役に立つようなことを習う。
 次の3分の1 は、世のため、人のために尽くす。
 残りの3分の1は、自分で好きなように使う」
と。

あの頃僕は、人生の全てを服に費やし、寝ても覚めても服作りのことを考えていた。
同世代のどのブランドよりも服を作って展示活動をしている自負を持っていた。
けれど今の僕の人生は、「常に」服のことは考えてない。

物乞いの子供たちにせめてもと小銭を渡す日々、服のことを考えない。
生と死が混在してる川べりで、服のことを考えない。
この国の女はこう口説くんだと得意げにレクチャーするおじさんとチャイを飲んでる時、彼の目が本当は別のことを求めてることを察する。
言葉が通じないおじちゃんおばちゃんたちの飲み会の中で出された謎のお酒を飲むとき、感覚をとがらせるのは、人々の見た目でも、服でも、言葉でもなく、ムードだ。
一週間風呂に入れないときもある。
なんだったら、ここ一ヶ月間、ほぼ同じ服を着てる。
ファッションデザイナーじゃない、ただ一人の人間として、放浪してる。


けれど、どんな時にも、僕の左手薬指のステッチは消えることはない。
腐ることも、ほつれることも、色褪せることもない。

4月中頃、東京に帰る。
服のことを考えてない日々から、
いろんなことを持ち帰って、
また服を生み出そうと、そんなことを考える。

2024/3/29 アゾレス諸島・サンミゲル島にて
nisai 松田直己

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