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「うんち」をしたのはお前か、中動態か

きっとあなたにも、お腹が痛くて遅刻した経験があるでしょう。そして、その時きっと怒られたことでしょう。でも思ったこと、ありますよね。なんで自分が悪いの?悪いのは「うんち」なのに。今こそ、そんな過去の「うんちな記憶」を払拭しましょう。

(※本記事では便宜上「うんち」と記述していますが、決して「うんこ」やそのほか同位の意味をもつ言葉との優劣を意図したものではありません。僕の経験からくるもの、語感からくるもの、と思ってください。)

「なんで遅刻したんだ!」「トイレしてたからです」「なんでもっと早く起きてトイレに入らないんだ」「まさかお腹が痛くなるとは思わなかったからです」「前の夜に逆算して目覚ましをセットしてトイレしてこないお前が悪い、ほら、みんなトイレしてても間に合ってるだろう。お前が悪いとは思わないのか」「(心の声:いや、全く思わないですね。)はい、僕が悪かったです」「よし!ホームルームが終わるまで廊下に立っておけ!(得意げ)」

(遅刻した生徒 VS 担任の先生)※フィクションです。

なぜ「意志」はいくらでも遡ることができる因果関係を切断して、行為の出発点を作り出すのか

「行為に連なる原因の系列は本当はいくらでも遡ることができる」、「にもかかわらず、われわれは意志が行為を実現しているという考えのもとで、その系列を切断してしまう」國分功一郎,熊谷晋一郎『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』193ページより

「うんち」は毎度出てくるたび、大変哲学的な問いを発していると思いませんか。自分の内から出てきたのに、目にした途端、もう自分とは全く関係ないものといわんばかりに拒絶したくなる。「昔のアイドルはうんちをしなかった」みたいですが、きっと今もしていないことでしょう。そう信じたいほど、うんちとは距離がある。

ところで、うんちは自身から出てくるものですが、自身の意志を必要として出てくるものでしょうか。答えは「NO」。体の生理現象として出てきます。人はもよおした時に「仕方なく」うんちをしに行くのです。もしそこに冒頭のような「意志」と「責任」の問題があるとしたら、どうでしょう。先生の立場は急に危うくなってきます。

というのも、先生の主張は、「うんちに至るまでの過程に意志があった」としているからであり、当然それは「責任を取るべきだ」という帰結に基づいているからです。

よく考えてみれば、「ある未来のうんち時」に対してわたしたちはどれだけ「意志をもって」行動できるでしょうか。「明日朝7時ぴったりにうんちするためには、22時ぴったりに寝て起きる必要がある」なんて思うでしょうか。あるいはこの(先生の)考えを進めて、「昨日のお昼に食べるご飯を焼肉弁当にしなければ、翌日朝7時のうんち時に間に合う」と意志することができるでしょうか。非常に難しいですよね。

考えてみれば、昨日の昼に焼肉弁当を食べてしまったとか、昨晩上着がめくれてお腹を出しっぱなしで寝てしまってお腹がゆるくなったとか、全部「将来のある時点の出来事に対する確率」でしかないわけです。その行為があった時点では、別に問題ではないのです。冒頭の文章で廊下に立たされてしまった生徒は、「遅刻をした事実」があった結果、「意志の問題」を問われたわけです。もし遅刻をしなければ、過去の意志と断定されるはずの数々の事象は、他の着席している生徒のように問題に問われなかった。

そのように考えると、先生の指摘はとてもいい加減に思えてくる。だって、もし遅刻した生徒が、昨晩地元のこわい先輩に道端で出くわして、コンビニで買った350mlの牛乳を2本無理やり飲まされていたとしたら?先生は「なぜそれを拒否しなかったんだ?飲んだお前が悪いだろう」なんて言えますか?

要は、ある行為は、いくらでも遡ることができるということです。そして、ある時、自分の意志ではどうすることもできない「牛乳道端で飲まされた事件」のようなことが起こっている現場へと立ち戻る。そこまで記憶を遡れば、責任が問われないかもしれない(信じてもらえる保証はないけれど)。けれども、先生はそういったことをしなかった。

想定される因果関係の可能性を切断して、遅刻した生徒に責任を取らせたのだった。

「意志」は遅れてやってくる

ある状況下が責任を問うものとして立ち現れる時に、初めて「意志」が向かい合う。「意志」が遅れたものとしてやってきて、行為の出発点を形成する。

意志は遅れてやってくるんです。責任が問われている現在に向かって、意志が「創出」され、過去から遅れてやってくる

もし遅刻した生徒が夜通しアルバイトをしていたら?家計が苦しいから、仕方なく働いていたとしたら?先生は悪かったな、と思うことでしょう。遅刻した生徒に責任があるとは思わないでしょう。そうしたら、「遅刻した生徒にアルバイトをさせている何か」へと目を向けることになるでしょう。遅刻した生徒の行動を縛り付ける何かの存在が見えてくるでしょう。

この思考プロセスが中動態的ということです。本人の意志とは無関係の何かによって「選択」を迫られた場合。人は様々な選択を行っていますが、その選択全てに意志は介在しない。もし「そうするしかなかった選択」で満たされた日常を過ごしている人がいたら?想像してみるだけでも、彼らは多くの場合、中動態的なプロセスをたどっているはずです。

そもそも中動態とは

いささか紹介が遅れましたが、中動態とは、能動でも受動でもない、また能動でも受動でもある、という態(言葉)のことを指します。現在の多くの言語で使用されている「能動VS受動」の対立とは異なる態(能動VS中動)が、かつてのヨーロッパ・インド語族にはありました。

中動態がよく残っている言語にサンスクリット、古代ギリシア語、アナトリア語派などがある。中動相・中間態などとも呼ぶ。サンスクリット文法では反射態(reflexive)と呼ぶことが多い。

また、wikipediaでは以下のように例が紹介されています。

具体的には、①自分に対する動作(従う・すわる・着る・体を洗う)
②動作の結果が自分の利害に関連する場合
③知覚・感覚・感情を表す動作(見る・知る・怒る)
④相互に行なう動作(会話する・戦う)
などに中動態を使用することが多い。
サンスクリットでは中動態が広く使われる。例えば、能動態の yajati(祭祀する)は、祭官が他人のために祭祀するときに使い、中動態の yajate は祭主が自分のために祭祀するときに使う。

僕は調べたことがないので分かりませんが、サンスクリット語には今も中動態が多く残っているようです。興味がある方は調べてみてください。『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』の著者:國分功一郎さんは、本著の117ページで以下のような言葉を綴っています。

さて、あらゆる行為は選択と見なすことができます。朝までゲームするという行為は、寝るのではなくてゲームをするという方を選択しているわけです。そして、行為すなわち選択は、意志の有無と関係ありません。ただそのような行為すなわち選択がなされているだけです。ところが、責任を問われなければならない場面になると、突然、意志という概念が現れてきて、その行為すなわち選択に飛びつくのです。

どうでしょう。冒頭の遅刻した生徒だって、免責できて(たったいま問われている責任を一旦わきにどけて)、遅刻したことの意味をしばらくのうちに理解できるのではないでしょうか。

学校という場において、「遅刻」は死活問題です。何もかも開始と終わりの時間に縛られているからです。「学校的時間の縛りがある」といってもいいかもしれません。そうした状況下では、遅刻した事実は何らかの責任を伴います。つまり、中動態的なプロセスを明らかにすることで、遅刻した生徒の意志からくる責任の問題を問い直すことはできますが、「遅刻した事実に対する責任」は正しく引責されるべきだ、ということです(本著ではそこまで言及していません。僕の記憶が正しければ^^;)。

あくまで遅刻は遅刻なのですが、遅刻した生徒と先生の会話を例にして、意志と責任の問題を上手く捉えることができる、ということですね。

僕の過去のトラウマを今、握りつぶす

そろそろ記事を終わらせるために、僕の話をします。(笑)

僕は昔から、他人の母親が握った「おにぎり」が食べられません。これはとても私的な経験で、同級生の誰に話しても共感が得られませんでした。

だから、僕は「自分の意志で拒否している」という印象を彼らから拭えなかった。でも僕はおにぎりが「食べたくなかった」のではない。食べられなかった。そこに僕の意志はなかった。でも、彼らには「意志」と「責任」の帰結が見えた。ちょうど、冒頭の先生にように。

僕は今こそ、中動態の視座をかりて、過去の「おにぎりのトラウマ」を握りつぶしたいと思います。

僕はこのブログで、自分の母親が握ったおにぎりは食べられるのに、他人の母親が握ったおにぎりが食べられないことに対して、罪悪感を語っています。もし本当に意志をもって拒否していたのなら悪いなと思うけれど、こればっかりはどうしようもなかった。耐えがたかった。食べるくらいなら、炎天下のグラウンドを2時間走り続ける方が良かったんです。そのくらい受け付けなかった。

もしまわりに冒頭の生徒のような人がいたら、また僕と同じように他人の母親が握ったおにぎりが食べられない人がいたら、「中動態っていうのがあるよ。意志と責任ってとてもデリケートなものなんだよ」って教えてあげてほしいです。

本の中でもあるけれど、中動態は「救い」ではありません。でも、正しく責任を取るためのプロセスを与えてくれる。外在化によって免責して、当事者のタイミングで引責する当事者研究のように、人には受け入れられる時期がある。

こんなことを朝のホームルームで話せば、きっと遅刻した生徒は正しく引責できたと思う。「自分が遅刻したこと」の意味を、正しく理解できたと思う。もっと中動態と当事者研究の話題が、教育現場に浸透していくことを期待しています。

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