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大男~また、あいつが犯しにやってくる【5/5】

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「……で、それまでは問題なかった、ということですか。あなたたちご夫婦は、幸せだったと」

 何でまた、わたしはカウンセリンなんて受けているんだろう。

 亀男に羊女。
 カウンセラーなんて、みんな同じようなもんだ。
 結局、激怒させられるか、落胆させられて帰ることになる。

 目の前に座っているのは、ヨボヨボの老医者を演じている志村けんみたいな、ほんとうによぼよぼのおじいさんだった。

 『ダメだこりゃ』と言って帰りたくなったが、まあわざわざ予約まで取ったんだし……わたしはこの老人医師に、すべてを話した。

 彼はとても聞き上手で、これまでのカウンセラーと違って一度もわたしの話に言葉を挟まなかった。

「……はい」わたしは答えた。「昨日までは」

「つまり昨日、何か大きく変わったことが……あったと」

「はい、とんでもないことです……一番、あってほしくないことが起こりました」

「……ふうん」老医師は何か考え込んでから、周囲を見回した。「まだ、タバコは吸われますか?」

「え?」

「タバコです。さっき、喫煙所でタバコを吸われていた話が出ましたよね? もうこの病院に勤めて、三〇年になりますが、五年前から完全に全館禁煙です……いまちょっと、看護師さんもいませんし、もしよければ一緒に 一服しませんか?」

「は、はあ……」あっけにとられているわたしの目の前で、老医師は抽斗からキャスターマイルドのパックと携帯灰皿を取り出した。「あの……いいんでしょう か?」 

「いいです、いいです。お持ちでなければ、どうぞ一本」

 目の前にくしゃくしゃのパックから突き出したタバコがある。
 キャスターマイルドの紙パックだった。

 わたしはそれに手を伸ばしていた。
 止めて何年になるだろうか……タバコを咥えると、老医師は 古いロンソンの機械式ライターで火をつけてくれた。
 そして彼は自分も一本咥えると、火をつけて吸い込んだ。

「あああ、おいしいですねえ……煙は」

 老医師が本当に美味しそうにタバコの煙を吸い、吐き出す。

「あとで臭いでバレますよ、看護師さんに」

 わたしは笑いながら何年かぶりの煙を味わった。

「いいんですいいんです。ここの看護師さんも、よく隠れて吸ってますからね……お互い様です。お互い、内緒にしているんです……堂々とお互いの前で吸わない、ってことを前提にね」

 わたしは、クスっと笑った。
 これまでで一番ましなカウンセラーだと思った。

 しばらくわたしたちは、無言でタバコの煙を味わっていた。
 先に沈黙を破ったのは、老医者のほうだった。

「あの……これはわたしの我流なんですけれどね。特別料金なしで、特別な治療をいたしましょうか?」

「え? 特別な治療?」

「はい、特別な」

 ……何か、エロい感じの言葉だった。
 でもまあ……目の前にいるのは私のおじいちゃんより年寄りの医者だ。

「……それって……何ですか?」

「一種の催眠治療です。昨日あったことを、できるだけ鮮明に思い出せます……あなたの鮮明な記憶から、わたしは何かのヒントを得て、いいアドバイスが出来るかも しれない。気休めの言葉や、お薬の処方箋だけじゃない何かを」

「…………」

 もちろん、少し逡巡した。

 催眠治療?……そんなの、いかにもインチキ臭い。

 でも、昨日あったことはあまりにもわたしにとってショッキングな出来事だった。
 二度とあんなことはあってほしくない。

 もうこれ以上、絶対にいやだ。

 時間 が巻き戻せるなら、昨日より前のわたしに戻りたい。
 わたしはしばらく考えてから、医師に言った。

「試して……もらえますか?」

「……そうですか。では、やってみましょう」

 老医師はとくに喜んだふうでもなく答えて、携帯灰皿でタバコを消した。わたしもそれに傚う。

「どうすれば……いいんですか?」

「背筋を伸ばして……はい、そうです。まっすぐわたしの方を見てください……はい、そのまま、そのまま……リラックスして……まっすく前を見て……ハイ、 そうです。では、これを見て」

 突然、目の前で、ロンソンのライターがフラッシュした。
 小豆くらいの火が灯る。

「いいですよ……火を右に動かします……頭を動かさずに、目だけで火を追ってください……そうです……次は、左に動かします……ゆっくり、ゆっくりで す……はい、元に戻ります……次はまた右です……」

 だんだん、部屋の中が暗くなっていく。
 目の前に灯るライターの火に、すべての明かりが吸収され……やがて見えるものは、火の明かりだけになった。



 寝苦しいので目を覚ます。

 目に入ってきたのは、ベッドサイドに置いた電気スタンドのオレンジの明かりだった。

 どうやら本を読みながら、そのまま眠ってしまったらしい。
 枕元に置いていた携帯で時刻を見ると……午前3時。

 ふと、ダンナを起こしてしまったんじゃないかと思って、隣を見る。
 そうか……今夜はダンナ、出張でいないんだっけ。
 
 それにしても何で目覚めたんだろう?
 
 喉が渇いているわけでもないし、おしっこに行きたくなったわけでもないのに。

 と、その時だった、嗅ぎ違えるはずがない……あの獣じみた体臭が、むわっ、と沸き上がてきた。

「???」

 でも、どこから? ……わたしは周囲を見回した。
 そ、そういえば息子はどこにいるんだろう?

 いつも、夫とわたしを挟んで、ほんとうに親子川の字で一緒に寝ていたのに。
 息子の姿もない。

 ナイフですっとなぞられたように、背中に悪寒走る。
 この嗅ぎなれた体臭の出どころはどこだ、なんてどうでもよくなった。

 わたしはこのとき、あの『大男』に対してこれまでとは比べ物にならない恐怖を感じた。
 

 あの『大男』がもし、息子に対して何かしていたら?
 ……これまでわたしに対してしてきたように、無慈悲で理不尽でおぞましいくて卑劣なことをしていたら?
 
 わたしは大声で息子の名前を呼ぼうとしたし、ベッドから起き上がろうともした。

 しかし、両方ともできなかった。

 前者はなぜか……息子の名前がとっさに思い出せなくなったから。 
 後者は、大きな両腕がわたしの両手首を掴んだからだ。

「??? えっ? ……やっ! ……えええっ?」

 ベッドの両端から、2本の手が伸び、わたしの両腕を捕まえていた。
 途端、ベッドに触れているわたしの手のひらが、違うものの感覚を捉えた。

 シーツの布地ではない。
 ベッドの一面が、じっとりとして、息づく人間の皮膚になっている。
 ベッドは巨大な肉でできていた……さっきまで普通のベッドだったのに。

「い、いやあっ……」

 わたしは身をよじろうとしたが、さらに2本の手が……これはふつうのサイズだった……肉のベッドから飛び出してきて、わたしの両胸を掴ん で、ベッドに引き倒した。

「や、やめてっ!」

 わたしは大声で叫んだ。

「……わたしの息子はっ? ……わたしの息子をどうしたのよっ?」

 肉のベッドは答えない。なぜならそれには応える顔がないからだ。
 さらに3本の手が飛び出してきて、わたしの下半身を捉えた。

 それがわたしのスウェットパンツを脱がそうとしている。

「や、「やめてってばっ!」わたしは叫んだ。「もう、あんたなんかにはゼッタイにさせないっ! ……わたし、結婚したんだよっ? ……子どももいるんだよ? ……ねえ、息子はどこにいるの? ……わたしの息子に、何かしたの? ……もし何かしたんなら……きゃあっ!」

 ビリッ。

 両胸を激しく捏ねていた手が、わたしのTシャツを引き裂いた。

 さらに手がたくさん伸びてくる……5本、6本……数えるのもバカバカしくなるくらいに。

 それがわたしのシャツの残骸を引きむしっていく。
 スエットパンツも引きむしられる。

「いやっ!」

 もう、ふつうに脱がそうという気はなくしたみたいに。

 数本の手が、それをビリビリに破き、 取り去ってしまった。
 あとはパンツ一枚だ……と思ったが矢先に、それもむしり取られた。

「や、やめてっ!」

 もう、犯されることに関しては観念した。
 しかし、まだ顔を見せていない『大男』には、挿れられる前に、これだけは言ってやりたかった。

「……や、ヤるんだったらっ……わたしを犯して気が済むんだったら、好きなだけやんなさいよっ……もう、これ以上いらないってくらいにヤりまくりなさいよ……で も、息子に手を出したら……あんたが息子に何かをしたらって……わたしは、あんたのチ●コも、指も全部噛み切ってやるからっ!! ……何本出してきても、全部、噛み切ってやる。で、あんたの喉ぶえにも噛み付いてやる……あんたの顔の皮を、わたしの歯で剥がしてやる……ぜったいに、ぜったいに、ぜったいに、許さない。 ぜったいに許さないからっt!!! ……きゃあっ!」

 何十本もの手がわたしを肉のベッドから空中に持ち上げた。
 わたしは両手を左右にまっすぐに伸ばしたまま、十字架に磔になるような姿勢で固定される。

 脚も大きく開かされ、その間には何十本もの指が這い回り、わたしをその気にさせようとしている。

 怒りと憎しみで一杯のわたしから、快感を引き出そうとして。

 お笑い種だ。

 鼻で笑ってやろうとした……と、大きく開かされた脚の間の真下から、巨大な二つの瘤が盛り上がってきた。

 何だと思ったら、それは巨大な膝だった。あの 『大男』の膝だ。
 両方がわたしの抱え上げられている高さまで盛り上がり、わたしの膝の間に分けいると、さらに脚を広げはじめた。

「くうっ……!」

 いつもことながら、とても抗える力ではない。
 わたしの膝を開く『大男』の巨大な膝の間から生えてきたのは……
 
 もう言わなくてもわかると思うけど、あの大きすぎるペニスだった。
 
 ベッドサイドの明かり に灯されて、それはつやつやで、絖っていて、ビクビクと息づいていた。

「……ふんっ!」わたしは言った。「ヤれよ。大男。さっさとヤれよ。この脳なしのチン●野郎。やるだけやって、いつもみたいにサッサと消えろよっ!」

 そのときだった。

「ママ……」

 はっとして顔を上げる。
 肉ベッドの前に、わたしの息子が立っていた。

 息子は、肉ベッドに大きく脚を広げられ、いままさに挿入されんとする、わたしの姿を、ほぼ正面から見ていた。

「いやあああああっ!」

 わたしは大暴れした。 突然耳をいじられた凶暴な猫みたいに。

「だめっ!! こっち来ちゃダメ! ……あっちに行きなさいっ! ……見ないでっ!

 息子はわたしの姿をじっとを見ている。
 何か不思議なものでも見るような表情で。
 確かに、見られているわたしのほうは、かなり不思議な状態だった。

「おっ……お願いっ……」わたしは、未だに顔を見せない大男に言った。「…………お、お願いっ……やめて……あの子に見せないでっ……お願いだから……はああっ!」

  先端が、わけ入ってくる。

「ああああっっ!」

 わたしは息子の名前を呼ぼうとした。

 でも息子の名前が、どうしても思い出せなかった。

 パチン。

 目の前の火が消えた。
 ライターが閉じられたのだ。

 目の前には、あの志村けんが年寄り医者の衣装を着たような先生の、気づかわしげな顔があった。

「……それで……あなたの息子さんの名前は?」医師が不意に聞く。 「今は、思い出せますか?」

「え……そりゃあ……もちろん」わたしは名前を口にしようとした。「……あ、あれ?」

 名前が出てこない。

「ご主人の名前は?」

「え、えっと……」

 頭の中は妙にスッキリしているのに、カラッポだった。

「あなたが勤めていた会社の名前は? ……通っていたスポーツジムの名前は?」

「えっ……えっ……えっ……」いきなり、続けざまに質問をされているせいだと思った。まだ催眠術の効果が、残っているせいだとも思おうとした……しかし、 わたしの頭には何も答が浮かんでこない。「……わ、わたし、どうしちゃったんだろ……」

 改めて、老人メイクの志村けん似の医者の顔を見た。

 亀のようなカウンセラーとも、羊のようなおばはんカウンセラーとも違う。

 三人の医者は、似てもに似つかない。

 でもよく見ると……全員それぞれ、志村けんや、亀や、羊に 似ているが、よく見れば目が二つに鼻がひとつ、口はひと つ……どれも同じ人間の顔だ。
 
「あなたが詳しく話してくださった、あなたが結婚前に勤めていた会社の課長……コネで入社したボンボンで、あなたをスペイン料理店に誘った……ええ と……」そこで医 師は手元のメモを見た。「イノシシ。そうそうイノシシ。彼の名前を、 思い出せますか?」

「そ、それは……」

 そんなの、覚えてなくても仕方ないじゃん、と思っ たが、これまた出てこない。
 不快感と嫌悪感はしっかり残っているのに、イノシシの本名は出てこない。

「……また、あなたが卒業した大学はどこです? ……何学部の、何 学科を卒業されましたか?」

「え、ええっと……あ……あ、あれ?」

「あなたは校内の喫煙所で、タバコを吸っているところを襲われ、レイプされました。それはどこの大学ですか? ……ところで、あなたは今さっきもタバコを吸 いましたよね。これは危険ですよ……タバコは身体に悪い。わたしの差し出したのはふつうのタバコですので、危険性は 強烈ですが、肺ガンや心筋梗塞、脳溢血 などの原因になりうる……その程度です。でも、このタバコが、ただのタバコではなかったら?

「な、何を……なに言ってるんです? 意味、わかんないんですけど……」

「あなたが通っていた高校はどこですか?  学校名は? ……あなたは、 その頃、塾に通っていた帰り道に、公園で『大男』に犯された。通っていた塾の先生は、とて も優しかった、という。その塾の名前は? ……先生の名前は? ……あな たはダウンタウンの番組を観たいから、近道のために公園を抜けた、と 仰いました。その ときに見たかった番組のタイトルは?」

「……えっ……あのっ……」
 
 わからない。思い出せない。
 ダウンタウンの番組なら、いくらでも思いつきそうなもんだけれど。

「これらはすべて、現実の出来事ですか? ……昨日……ええと……」医師は手元のメモを見る。「……肉のベッドの姿をした『大男』に、幼い息子さんの目の前で犯された、とあなたは言う。でも、あなたは、息子さんのお名前を思い出せない」

「そ、それは……それはちょっと……頭が混乱してて……ちょっと、 ちょっと待ってください……ええと……それは……その……」

「失礼ですが……今、おいくつですか?」

「えっ?」

 わたしははっと顔を上げた。

「今、おいくつですか?」

「え、あの……ええっと……」

 そんなの、カルテ診りゃわかるでしょ、と思った。
 しかし……それも思い出せない。

 三〇過ぎたところまでは……いや、過ぎたの だろうか?

 ちゃんと過ぎたのか?
 ぜんぜん思い出せない。

「左側の壁に、鏡があります。それを見てください」

「えっ……なんで……」

「それで、あなたは、今のご自分の年齢を思い出すことができます」

「…………」

 ぞっとした。

 一体何なの? ……この医者、大丈夫なん?

 ……でも、わたしはまだ催眠術から醒めないでいるかのように、自然と椅子から立ち上がって……鏡の前に立っ ていた。

「……そんな……」

 鏡に映っていたのは……髪をゆるくお下げにして、怯え切った顔をしている12歳のわたしだった。

 水色のTシャツを着て、赤いスリングのポーチをたすき掛けにしている。

 わたしが12歳の頃、とても大事にしていたポーチだった。
 これは、母が誕生日に買ってくれたものだ。

「……そうです、それが今のあなたです」

 医師が背後から言う。

「……結論から申し上げましょう。『大男』はいません。あなたが、部屋に突然現れた『大男』にレ イプされた、と言って聞かないから、お母様があなたをここに連れてきた」

 そこで、老医師は言葉を切って、わたしの顔をじっと見た。

「12歳だったきみをレイプしたのが誰だか、きみにもわかってるんじゃないのかい?」

 突然、医師の口調が変わった

「…………そ、それは……それは……」

「きみは否定するだろう。お母さんにも、否定した。自分をレイプしたのは、『突然、部屋に現れた大男』だと言って、きみは聞かない。いくらお母さんが、君 に本当のことを言っても……部屋で君にいたずらをしたのは、君のお母さんが交際している『酒飲みの運送屋』だ、と言っても。君は彼のことを気に入っていた。彼が君のこと を気に入っていたのとはちょっと違った意味で。彼は今、薬物取締法違反で 警察に逮捕されてる。刑務所にいるんだ」

「ちょっとちょっとちょっと……」

 わたしは鏡に映っている12歳の自分の姿から逃れるように振り返り、志村けん似の医者を睨んだ。

「なに言ってんの? ……それは、大学んときにかかった、あのカウンセラーにも言ったわよ……え えと……」

亀男。亀を思わせる小男のカウンセラーに、だろう?」

 医師は柔和に 笑っていた。

「そう、彼にはそう言ったはずだ。わたしにもそう言った。彼は、わたし だ。彼は、亀だ。生殖器の先端、亀の頭だ。君にとっ て、男性そのものだ。わたしと話をしているうちに、きみは頭の中でわ たしを亀男に変化させた」

「だから言ってるじゃないっ!!」

 わたしは声を張り上げていた。

「……あいつは、あいつは……確かに頭を撫でられるのはイヤだったけど……」

 そう、そのたびにわたしは髪を洗っていた……はずだ。

「いや、イヤじゃなかったはずだ。きみは彼になついていた。そこに彼はつけこんだ……ある夜、彼はきみに、『これは特別なタバコだから吸ってみるかい?』と いう感じで声を掛けたんだろう……彼は、以前から薬物中毒患者だっ た。きみはそれほどタバコには興味を惹かれなかったけれど、彼を喜ばせたいために、そのタバコを無理して吸った……でもそれには、何らかの薬物が仕込まれていた。あるいは、大麻だったのかもしれない」

「ち、違うってば……」

 わたしの声は震えていた。

「そして、酩酊している君を、裸にして、レイプした。彼は背が高かっ ただろう? ……君は彼を慕っていた……というか、お母さんのために、無理して慕おうと した……そんな相手に、酩酊していたとはいえ、君は傷つけられた。翌朝、彼は痕跡を残さないように万全の注意を払っただろう。しっかり後始末して、証拠隠滅を図っただ ろう……」

 喉がカラカラに乾いていく。
 医師はさらに言葉を続けた。

「でも、君の母さんは、何かが起こったことを確信した……警察 はそこまで調べてないがね。お母さんのボーイフレンドの運送会社社員は、君のお母さんにも、その手の薬を使って、なにかをしたことがあっ たんだろう……これは残酷な推測だけれど、ひょっとすると君のお母さんも、彼と薬を一 緒に楽しんでいたのかもしれない」

 母が……そんな?
 頭が振り回されているようにグラグラする。

「ともあれ、娘も同じ目に遭ったと考 えたお母さんは……いや、無意識のうちに、娘をそんな男に差し出したことに、罪の意識を感じたお母さんは、警察に通報した。そして、男は違法薬物所持で逮捕さ れた。きみのお母さんが提出した、男の所持品の中に薬物が発見されたんだから……もう言い逃れのしようがない」

 医師は話し続ける……わたしを置き去りにしたまま。
 いや、置き去りにはなっていない。
 わたしは彼の話に、ちゃんと引っ張られている。

「でも、問題は……お母さん自身も、きみが彼にレイプされたことを、いや、君が進んで男の求めに応じたんじゃない か、ということに関して、疑いを持っている。だから、性的暴行のことは警察に話さなかった。今、このドアの向こうの待合室で、待っている君のお母さんはね」

「……でも……だって……」

 どんどんわたしの言葉は子どもじみていく。

「じゃあ、わたしが中学・高校と勉強を頑張ってたのは? 水泳も頑張ったのは? ……そ れもぜんぶ、ウソなわけ?」

「いや、頑張ってたんじゃなくて、これから頑張ろうと自分に言い聞か せてたんだ」

 医者は言った。

「君がいい大学に行くことも、水泳をすることも……お母さんが望んでいることだ。お母さんは高卒で学歴にコンプレックスがある。お母さん自身も、中学時代から水泳を始めて、娘にも水泳をさせようと考えていた……これはさっき、お母さん から直接聞いた話だよ。君は、そんなお母さんの期待に応えようと決め たんだ……ここ数日間のうちに」

「でも……じゃあ……ええっと……なんであたし、そんなことを?」

「お母さんに対する、信頼を求めているから……だと考えられる」

  ここで医師はひとつ、咳払いをした。

「……きみがかかった、という二人目のカウンセラー……そ うそう“羊女”。君の『大男』の話に懐疑的な、女性カウンセラー……これは、お母さんだ。君は必死で、あの夜、正体不明の『大男』にレイプされたんだ、と お母さんに訴える。お母さんは、真相を知っているから、これを認めない」

 母が“羊女”って……ちょっと待って。
 そこまで言っちゃうのこの医者。

「しかし、お母さんは……君があの麻薬依存症の男に、完全に昏迷させられて、無理矢理、合意もなしに犯されたのではなく、君が積極的にそれに応じた、いや、もっとはっきり言うと、あの男を、君が誘惑したんじゃないか…… とい疑念を抱いて いる」

  •  そんな……母がそんなバカなこと……考えるわけないじゃん!
     と、言い切れないわたしがそこにいた。

「もちろん、これは真実ではない。それこそ妄想だ…… いいかい? ……これは、人間が合理的な生き物でも、いつも、どんなときも倫理観や道徳観に元づいてものを考える生き物ではない、ということの証だ。お母さ んのことを責めないでほしい。これからの人生、君は何度も人間のそんな局面を目にするだろう。友達や、恋人や、将来、夫になる人や、自分の 子供にも……このことは、よく覚えておくといい」

「……ねえ、先生……」わたしは言った。一二歳の声で。「……あたしのダンナさんと子どもは? ……ねえ、あたし、幸せだったんだよ。先生は、いったい何のつもりで、それを奪うの?」

「それは、幸せな家族と暮らしたい、と願う君の願望だよ。わたしが奪ったんじゃない。わたしはほんの40分ほど前、『大男』にレイプされたと頑なに主張する君に、催眠術をかけた。君はその間に、『大男』が実在して、君の人生に何度も現れては、君をレイプし続けた、という物語を作り上げた。君の想像力は人並み外れてる。そうすることで、数日前にあ の麻薬中毒患者からされたことを、否定しようとした」

「ち、ちがうってば……そんなこと、ありえないよ……」

 でも、何回もわたしの人生に現れた『大男』の存在は?
 それもありえない。
 なにもかもがありえなくて、ありえる。
 

「そのために一生、その『大男』に付け狙われ、なすすべもなくレイプされ、辱められるという妄想に悩ま さ れる人生を、選ぼうとしている。『大男』が実在するかどうかは問題じゃない。君は事実を否定するための妄想に、これから一生苦しめられる人生を、自分で選 ぼうとし ているんだ」

「……ドアの向こうに……あたしのお母さんがいるの?」

 あたしは自分の膝を見下ろした。
 
 ショートパンツから伸びたいかにも子どもっぽい細い脚に、小さな膝小僧。

 太腿の上で握り締められている拳は頼りないくらいに小さく、そしてすべてが 涙で歪んでいた。

「君はどういう人生を歩みたい? ……お母さんに、今、ほんとうのことを言って、『大男』にお別れをするかい? ……それともこのまま、『大男』と暮らしてい きたいかい?」

「……先生」あたしは言った。「先生はあたしに、まるで……大人に話しかけるみたいに話すんですね」

「言葉づかいが難しい、ということはなかったろう? ……君は読書家ら しいからね。私がさっきここでお母さんと話している間、君は待合室で大人向けの小説を 読んでいただろ?……その君が肩から下げてる赤いポーチに入ってるやつだ」

「…………」

 わたしはポーチを探った。

 出てきた本はトマス・ハリスの『羊たち の沈黙』。
 近くの区立図書館のラベルがついていた。

 わたしが高校生のとき、あの公園で、大男に逆さ吊りにされてあそこを……思いっきりクンニされていたときに思 い出した本だ。

 いや、思い出したんじゃない。

 あたしはその部分をついささっき、待合室で読んだのに違いない。

「……ねえ、先生、どうするの? あたしにまた、催眠術をかけるの?……それで、お母さんにほんとうのことを言うか、『大男』と一緒に暮らしていくか、それ を選ばせてくれるの?」

「いや……君はこの部屋を出て行くだけだ。私は何もしない。お母さんに何を言か決めるのは……君だよ」

「ねえ……先生。ほんとうのことを知りたい?」

 あたしは言った。

「ほ んとうはどうだったか、先生のおかげで思い出したよ。あの晩、へんなたばこを吸わされたこと は本当だけど……そのあと、あたしがどうしたか知りたい?」

「……いや。別に」志村けんに似た医師は言った。「それは、君のこれからの人生にとって、重要なことかな? ……これも覚えておくといい。ほんとうのことが 正しいことだとは、限らないんだよ」

「……あたし、エッチなのかな」

 あたしはいたずらっぽい笑みを作っ て、12歳に戻った棒っきれみたいな自分の脚をクロスさせる。

「……ねえ先生、あたし、エッチな子だと思 う? あの男とあたし、どんなエッチなことしたか、知りたくない? すっごくエッチだったんだ……あたし、エッチなんだよ?」

「……みんなそうだよ。エッチじゃない人間なんていない」医師は特に興味なさそうに言った。「さあ、診察は終わり」

 なーんだ。聞いてくれないの……?
 つーまんないの。

<了>

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