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鈴鹿サーキットの夜が好き

娘は公園に行ってしまった。夫はキャンピングカーを返しに行き、そのままランニングしながら帰ってくるそうだ。
4泊5日の車中泊を終えて帰ってきたばかりだというのに、二人とも元気である。私は、洗濯機のまわる音を聞きながらiPadに向かっている。相変わらず、隙あらば何かを書こうとしている。私も元気だ。
ただ、車に揺られている時間が長かったせいか、止まっているのが酔いそうだ。映画「ノマドランド」の主人公を思い出す。車で寝泊まりしていた主人公が、誰かの家に招かれて快適そうなベッドを用意してもらうのだが、眠れなくて結局車に戻って眠るシーンがある。あれは精神的なものだと思っていたけれど、案外フィジカル面の不快感だったのかもしれない。ハイエースを土台にしたキャンピングカーでは、動けば揺れるのが当たり前だった。寝返りを打つだけでゆらゆらと車ごと揺れる。当たり前だけど、今これを書いているマンションの床は揺れない。私が右や左に動いてもびくともしない椅子に、三半規管が驚いている。慣れ、というものはすごいな。私は「慣れ」の力に希望を感じる。どんな不便も絶望も「慣れ」の前には無力なのかもしれない。

鈴鹿に行くのは2回目だった。
世の中には「鈴鹿(すずか)」と聞いてすぐに「サーキット」「F1(エフワン」「三重県」とピンとくる人と、そうじゃない人がいる。後者の方は、今後「鈴鹿」と聞いたら、F1を思い出してくれると嬉しい。あなたの「鈴鹿」に意味を与えた最初の何かが私の記事であるなんて、光栄だ。
じゃあ「F1」とはなんぞや。という人のためにも説明が必要だと思う。「F1」と聞いてすぐに「モータースポーツ」「世界最高峰」「フェラーリ」などが思い浮かんだ人は、お友達だと呼ばせてほしい。思い浮かばなかったあなたとはこれから仲良くなりましょう。良かったら続きを読んでください。

「F1」のFは「フォーミュラ」のFである。
「規格」「規定」「公式」などの意味があるらしい。
決められた規格の車で、決められた距離を一番速く走れるチームがどこか争う。これがモータースポーツの基本ルールだ。
「F1」があるからには「F2(エフツー)」も「F3(エフスリー)」もあるし、「スーパーフォーミュラ」というものもあったり、電気自動車で争う「フォーミュラe」というリーグもあったりする。これらに関してはヨーロッパが発祥の地だが、アメリカ発祥の「ナスカー」や「インディカー」といったレースもある。
単にモータースポーツと言っても色々あるのである。
そしてそれぞれに決められたルールがあってその中で一番早いチームがどこか、競い合っているのだから、どのリーグが一番すごいとか、一番速いとか、一番シビアだとか、厳密には言えないと思う。「決められた規格」の中で争うので、異種格闘技戦みたいなことはできない。

けれどF1はモータースポーツの最高峰といわれる。

自動車メーカーや飲料水メーカー、個人の富豪(やばい富豪)などが名乗りをあげ、全10チーム、各2名のドライバーで争われる。(つまりF1レーサーは世界に常に20人しかいない)
レースは一年を通して世界各国で行われ、それらは国名にGP(グランプリ)をつけて「モナコGP」とか「シンガポールGP」とか呼ばれる。各GPの順位ごとにポイントが与えられ、そのポイントで年間チャンピオンを決める。
規模、車の速さ、走行距離、観客動員数やファンの多さなど、様々な要素を踏まえて、F1は世界最高峰のモータースポーツと言われるのである。

そのGPのうちの一つ「日本GP」が先日、三重県鈴鹿市にある鈴鹿サーキットで開催された。
スケジュールとしては以下の通りだ。

【金曜 フリー走行】
P1、P2と、決められた時間内でコースを走り、データを取ったり車の調整をしたりする。PとはpracticeのPだ。

【土曜 フリー走行、予選】
金曜に引き続きP3を行った後、決勝のスタート位置を決める予選が始まる。Q1、Q2、Q3とこれも3回走る時間が設けられているが、こちらは1周のタイムを測る。Q1で20人から上位16人に、Q2で上位10人に絞られ、Q3で最終的なスタート位置が決まる。
QはqualifyのQである。

【日曜 決勝】
サーキットによって周数は変わるが、305kmを超える最小の周回数を走るよう定められている。鈴鹿の場合は53周(307km)である。

と、こんな感じ。
どうだろう?思ったより長くない?3日間走ってるのも長いし、決勝でこんなに何十周も走るって知ってた?

まだ結婚する前、よく夜中に夫がF1を見ていた。
海外で行われるレースだと、日本での放送時間が夜中になったりするのだ。
「おやすみ」
と一緒に寝たはずの夫が、夜中に起きて小さな音でテレビを見ている。
私は目が覚めたような覚めてないような状態で、テレビの明かりだけの薄暗い室内をぼんやり見ている。
そのうちにまたうとうとと寝てしまう。
と思ったらまた起きてしまったりする。
夫はまだF1を見ている。
どれくらい寝たのかは分からないけど、F1というものは、ずいぶん長いこと走ってるんだなぁ、と思った。
あれから何年経ったろうか?

初めはぼんやりうとうと見ているのが楽しかった。そのうちに大まかなルールがわかるようになってきた。解説者の言ってることがわかる部分が増えてきた。F1のある週末が楽しみになった。
そしてある日、家族で出かけたショッピングモールのアウトドアショップで、キャンピングカーが展示されているのを見た時
「これで鈴鹿行っちゃう?」
と口走った。

私は自分のことを我が家のアクセルだと思っていて、夫がブレーキだと思っていたけど、最近、夫もアクセルだな、と思い始めている。あるいは、私がガソリンで、夫がアクセルかもしれない。誰か我が家を止めてくれ。
止めてくれる人がいないので、もう2回行った。
多分チケットが取れたら次も行く。

木曜に鈴鹿入りして、最寄りのショッピングモールで晩御飯を食べた。
チョイスは寿司だ。日本のsushiを食べに、F1チームのメカニック(整備士)が訪れることがあるのだ。誰か来ないかなぁ、と思って普段食べるよりもちょっとお高めの寿司を食べていたら、アルファロメオのメカニックたちがやってきた。
「頑張って」
と声をかけると
「thank you」
と笑顔で応えてくれた。楽しい。
その後モール内で必要なものを揃える。飲み物とか、おやつとか、明日の朝御飯とか。
食料品売り場の一角にはレッドブルのコーナーがあって、レースカーのレプリカが展示してあった。レッドブルはエナジードリンクのイメージが強いかもしれないが、F1のチームでもある。
2019年から2021年までホンダのパワーユニット(と呼ばれるエンジンとその周りの部品)を搭載していたことで、日本ではレッドブルが人気だ。というか、世界中でもレッドブルファンは増え続けていると思う。2021年に王者メルセデスとの熾烈な争いを制して以来、いわば敵なし状態で連勝しているのだ。
2022年からはホンダはF1を退いたが、パワーユニットはそのままレッドブルに引き継がれ、ホンダのロゴマークも残っていたことで、レッドブルに対して国際試合で活躍する日本人選手を応援するような気持ちが、どこかにある(少なくとも私は)。
ショッピングモール内もレッドブルのTシャツを着ているF1ファンたちが多く見られた。しかしその次か、あるいはもっとたくさん見られたのはやっぱりフェラーリである。
F1は知らなくてもフェラーリという高級車を知っている人は多いだろう。あのフェラーリです。チームカラーはもちろん赤。F1開幕の1950年から約70年間、出場し続けている最古参のチームで、日本でもファンが多い。
その次に多く見られたチームTシャツはアルファタウリというイタリアのアパレルブランドである。このアルファタウリも日本で人気である。レッドブルと同様にホンダのパワーユニットを搭載していたこともあるし、なんと言ってもドライバーの一人が角田裕毅(つのだゆうき)という日本人選手なのだ。
日本人だから日本人を応援する、という気持ちは、なんだか出所不詳の不思議な感覚がありますが、その話は一旦置いておいて、実感として、私は、気になる。日本人選手が国際試合で、一体どんな活躍を見せてくれるのか、とても気になる。一方なぜか日本の地上波メディアは気になってないようで、スルーされ続けている。F1自体が長い年月をかけて、日本では今人気が下火なのだろう。あるいはそれも底をついて、もう一度盛り上がりかけている途中かもしれないとも思う。私もそのうちの一人かもしれない。
なんてことを考えていると、夫がレッドブルのレプリカの車体の底面を、しゃがみ込んで覗いていて、それを見ていた娘がゲラゲラ笑っていた。
二人ともおかしいと思う。


その日は近隣のキャンピングカー用駐車場に泊めて一泊した。トイレとシャワーも貸してくれる専用の駐車場があるのだ。
あたりは真っ暗だった。
久しぶりにみる広く深い夜空は雷雨。遠くの稲光もよく見えた。

金曜日。
雨は上がって、気持ちのいい天気だった。駐車場で歯磨き身支度を済ませ、サーキットの駐車場に移動する。
少し時間に余裕があったので、椅子とテーブルを出して、外でコーヒーを飲んだりした。同じように外で朝食をとっている他の参加者も多くいた。
前述の通り、F1は日本のメディアにはスルーされ続けていて、リアルでF1ファンに出会うこともほぼない。なのに、ここにはたくさんのF1ファンが集まっていた。一体、今までどこにいたの?という気持ちになる。

さて、ここから広大な敷地内を徒歩で移動する日々が始まる。
午前中は小2の娘の満足度向上のためにサーキットに隣接している遊園地、鈴鹿サーキットパークに行くことになった。駐車場からはサーキットを挟んで反対側で、コースの下を抜けるトンネルを潜っていく。
前日のショッピングモールとは比べ物にならないチームTシャツの群れ。我が家も娘がレッドブルのTシャツを着ていた。
メインゲートには「Are you Ready?」という横断幕。大音量でF1のオープニングテーマ曲「Formula 1」が流れていた。


「デーデレデーデーデーデーデー、デーデレデーデーデーデーデー」
娘と一緒に口ずさみながら歩く。
この「Formula 1」という曲、ぜひYouTubeで検索してほしい。作曲者が指揮しているオーケストラの映像があるのだけど「カッコイイ」が詰め込まれている。とても気持ちよさそうに指揮棒を振っているので、よかったら見てください。()いつかピアノで弾けるようになりたい。

と、案外空いていそうなグッズコーナーを発見した。
私の働いている書店と、娘の習い事と、近所のママ友と…色々お土産を買う予定でいた。
お土産を渡すという習慣がなかなか身に付かなかった私も38歳になってようやく、どこかに行ったら、お世話になってるあの人にお土産を渡したい、と思うようになった。でもお土産って難しいよね。ちょうどいい塩梅で喜ばれるものってなかなか見つからない。これだと仰々しすぎるかな、これだとそっけなさすぎかも、とか色々考え込んでしまって、決まらない。でもこういうことをちゃんと大人はやってきて、センスを磨いているんだな、ということがようやく見えてきたのだ。私もやりたい。
「ちょっとお土産見てくるから、先に行ってて」
と夫と娘を遊園地に送り出し、ああでもないこうでもない、と考えながらお土産を選んだ。
その間に娘と夫はいくつかのアトラクションを楽しんだらしい。
鈴鹿サーキットパークはその名の通り、「操縦」させるアトラクションばかりである。年齢に合わせて難易度の違うエリアに分かれており、低年齢の子どもでも楽しめる乗り物が豊富だが、それでも必ず、ちょっとした操縦をさせる。なんか信念を感じる遊園地である。
「子ども騙しだと思ったら大間違いだぜ」
と耳元で囁かれている気がする。
この遊園地目当てで行っても楽しいと思う。ちなみにF1開催中、チケット購入者は全日程無料で楽しめる。全アトラクション乗り放題である。一日中遊園地で遊び尽くしたいところだが、我々のメインイベントがF1であることを忘れてはならない。
ジェットコースターから降りてきた娘と夫を見つける。合流。その後3人でもう一つ乗り物に乗って、サーキットに戻った。
少し早めだが、メインの広場でお昼を食べることにする。
私はお目当ての食べ物があった。
鈴鹿名物ドミニク・ドゥーセというパン屋さんのパニーニが大変美味しいのである。娘の分のパンと夫のラザニアも買って、ビールも買って近くのベンチで食べた。
その後、フリー走行を観戦。金曜日のフリー走行は自由席なので、この辺りでいいか、という場所を探して観戦した。長い直線コースを見渡せる場所だった。
目の前をすごい速さと轟音で車が通り過ぎていく。その度に拍手を送った。来てくれてありがとうという気持ちだ。
我が家にとってはワンシーズン 1回のお祭りだけど 、F1の選手やチームにとってはこれが日常なのか、と思う。自分たちの行く先々でお祭り騒ぎで、大観衆見守る中、レースを行う選ばれし10チーム20人のドライバーは、一体自分の人生の何がここまで来させたのか、と考えたりするだろうか。そんなことを考える暇はないかもしれない。より速く走ることだけに集中していれば、そんな疑問など浮かぶ余地もないかもしれない。

その夜は、またショッピングモールで晩御飯を食べ、シャワー付きの駐車場でシャワーを借りて、サーキットの駐車場に戻った。
車の中で、娘が持ってきたナンジャモンジャというカードゲームをやった。その後、駐車場の端から端までてくてく歩いて、トイレと歯磨きをさせ、22:30頃、娘は寝た。その後夫も就寝。
私はもう一本ビールが飲みたくて、でも飲むとまたトイレに行きたくなるので、もうトイレに歩きながら飲んでしまえ、ということで、ビールと歯ブラシを持って、またてくてくトイレまで歩いた。ゆっくり飲みながら歩いた。
夜風が気持ちよかった。
前回来た時は10月で、台風の最中だった。気温も低くて、確かフリースを着ていたと思う。今回は半袖で大丈夫だった。
駐車されている車のほとんどは、もうその主人を乗せて眠りについているようだったが、中にはまだ、車の横でお酒を飲みながらF1談義に花を咲かせているであろう人々もいた。歯磨きをしながらトイレに向かって歩いている人もいた。警備員の男性が自転車に乗って見回りをしていた。
私は彼らを眺めたり、広い夜空を眺めたりしてビールを飲んだ。


土曜日は午前中にフリー走行(P3)を見て、遊園地で少し遊んで、お昼を買って予選に備えることにした。この日は指定席である。
夫が悩みに悩み、チケット争奪戦を勝ち抜いて取ってくれた席は、端的にいうと最高だった。
スタート地点からのストレートで速度を上げた車が、視界の右端に通りぬけたかと思うと、最初のカーブを速度を落とさずに曲がって戻ってくる。いや、実際にはブレーキをかけながら曲がっているはずなのだけど、一般道を走る車のスピードに慣れた目で見ると「その速度で曲がれるの?」と感じてしまう。なんか、なんとなくぺろーんと飛んでいってしまいそうに思える。38年間生きてきた経験値で、物理法則的に「車が飛んでいきそう」と感じるのである。でも飛ばない。これは空力を使用した車体構造によって、車が地面に吸い付いているような状態になっているからだ。(ダウンフォースとかグランドエフェクトとかいうのだけど、空力的な話が知りたい人は調べてくれ)
そうして戻ってきた車が、今度は右側から左側へ、S字カーブをヒュルヒュルとすり抜けていく。なんとなく、トムとジェリーを彷彿とさせる。ここでも、なんでこの速度でコースを外れないんだろう?と脳みそがバグった感覚になる。理解が追いつかないまま、車は視界の左側へ消えていく。
「この席、最高じゃない?」
と夫にいうと、分かりますか、と満足そうな顔をしていた。
ここで決勝も見ることができると思うと、とても楽しみだと思った。
エンジン音と視界を通り抜けていく車、それに合わせて拍手をし歓声を送る。日差しは暑いが、風は涼しい。なんだろうな、この心地良さは。
正直、夫の隣でうとうとしながらF1を眺めていた夜中のあの気分は、最近では味わえなくなっていた。なぜなら、もうF1は私の知らない世界ではないからだ。解説の意味が分かってしまう。応援しているチームもある。ドライバーの人間関係も気になる。当たり障りのないインタビューから本心を探ろうとしてしまう。
でも生で見るF1は、あの夜中の気分を思い起こさせた。
大変な幸福感で、私はサーキットで6本、キャンピングカーに戻って2本、計8本のビールを飲んだ。ちょっと自分でもどうかしてるな、と思うけど本当に幸せな一日だった。
その日は最寄りのショッピングモールで晩御飯を食べた後、その敷地内にある温泉に行った。温泉の楽しみ方がいまいちよく分からないまま大人になってしまったけど、うちの小2の娘は温泉が大好きで、とても楽しそうにいろんな湯船に浸かるので、私はただそれについていくだけでよかった。
ハイネケンばかりを出店で買っていると高いので、普段から家で飲んでいる第3のビールをスーパーで買い、朝御飯やおつまみも買い込んで、またサーキットの駐車場へ。
前日と同様に、家族2人が寝静まった後、1人で駐車場を散歩した。
ここにいる人はみんなF1ファンなんだな、と思うと妙に安心した気分になった。

私は考える。
通常、この駐車場くらい暗い夜道だと、緊張するものだ。
突然の話の展開になってしまうけれど、小学校高学年から28歳くらいまで、私は数えきれないほど知らない男性に絡まれてきた。電車の中やファストフード店、昼間の通学路やバイトの帰り道。
私は心の中で、彼らをジョーカーのような存在と認識するようにし、平穏な日常に緊張感を与えるために異世界からやってきた、と設定していた。そう思わなければ、納得がいかなかった。絡まれると一日憂鬱な気持ちになるし、自分の非を探そうとしてしまう。髪を染めてピアスをすれば、もっとギャルっぽい格好をすれば、絡まれないかもしれないと思った。でも私の好みではない。私はできれば、ジョーカーのような彼らと対等に会話したいと思っていた。彼らは、私の見た目で反抗しなさそうだと認識して絡んでくる。私はそれに対し、怯えずに「こんにちは」と言いたかった。明らかに追いかけられていても逃げたくなかった。
いや、でも、本当、ただ怖いので。殺されたくないので、怯えたし、逃げた。
しかしそれは28歳になるとピタリとなくなった。私の世界からジョーカーは消えた。というかそもそもジョーカーでもなんでもなく、ただ若い女を狙ってただけなんだった。
それから10年。本当に綺麗さっぱりそういう被害に遭わなくなった。なのに、今でも夜道は緊張するのである。

F1サーキットの駐車場はその緊張がまるで必要なかった。
みんなF1を楽しみに来ているのだ。そのためにチケット争奪戦を勝ち抜き、高い金額を払って、車中泊までしているのだ。
そう思うと、緊張する理由はどこにもなかった。

1人で、こんなに夜を満喫できる場所が、他にあるだろうか?
ただ夜を味わうことができた。あんなに明るかった空が真っ暗になっていることに驚けばよかった。夜風を肌に感じているだけでよかった。
私はビールを飲みながら、駐車場をずっと歩いていたかった。

日曜日。
決勝レースが行われる日である。
国歌斉唱の終わりに合わせて上空をブルーインパルスが飛行する。みんなが空を見上げて歓声をあげた。
「紅の豚」というジブリ映画を観たことはあるだろうか?後半、というか最後の方で、主人公とそのライバル的な男性が飛行機で戦うシーンが描かれているのだが、それを見物している人々がなんとも牧歌的というか、そんなシーン経験したことないのに、なぜか「懐かしい」という気持ちになる。
私は、この F1の開催期間中、ずっとこの「懐かしい」感じをお腹に抱えている気がした。
テレビで見るよりも情報が少ないからかもしれないな、と思った。
テレビでは画面が絶え間なく切り替わり、何が起こっているかを伝えてくれる実況と解説者がいて、ドライバーとチーム間で交わされる無線も聴くことができ、それを通訳してさらに噛み砕いてつまりどういうことかを教えてくれる。
私は長い長いテレビの歴史に思いを馳せた。こんなに親切に楽しませてくれていたんだな。そのためにたくさんの人やお金が動いて来たんだな。そうすべき、価値のあるものだったのだと。多くの人がテレビに夢中になって来たのだ。その目線に応える時代の努力を感じた。
それらが与えてくれる情報がないから、牧歌的な気分になっているのかもしれない。言葉にできる情報量で言えば、生で観戦するよりテレビで見る方が圧倒的に多い。
しかし言葉にできない情報を受け取っているような気もする。それが私を懐かしいと感じさせ、まだ F1のことを何も知らなかった時の深夜の空気感を思い出させているのかもしれない。
あるいは、日常から隔離されているからかもしれない。ここでは、家事や仕事や作品のことは考えなくていい。(本当は漫画のネームを考えようと思って準備してきていたのだが、すぐに「あ、これは無理だな」とあきらめた。F1に集中するのが正解だ)非日常空間を味わっているのかもしれない。

と、色々書いてみたけど理由はなんでもいい。
相変わらず日差しは暑く、風は涼しい。ビールは進む。遠くに聞こえていたエンジン音がこちらに向かって爆音になっていき、そしてまただんだんと遠くなる。サーキット内に響き渡るMCの声は、なんだか運動会のような気がする。私は大観衆の一部だ。
みんなが楽しそうにしている。
夫も前のめりでレースを見守っている。
娘もはしゃいで楽しそうだった。
私の人生の何が今の状況を作り出したのだろうか。そんなことを考える必要はどこにもなかった。ただ満喫すればいいのだった。

1位は案の定レッドブル。ドライバーはマックス・フェルスタッペンというオランダ出身の選手だ。まだ25歳なのに2度もワールドチャンピオンに輝いている。今年も彼の前に出る選手は現れなさそうだ。
2位3位はマクラーレンというチームだった。
3位までがポディウムと呼ばれる表彰台に乗ることができる。よくよく考えるとこれもどこかしら牧歌的だ。メダルやトロフィーを受け取った後、クラシックの「カルメン」のBGMでシャンパンファイトが行われる。シャンパンファイトというのは、シャンパンを振って、他の選手に掛け合う、なんか楽しそうなアレである。
我が家の席からは、生でポディウムを見ることはできなかったが、「カルメン」は聴けたしコース上の大画面で様子を見守ることもできた。
因みに角田は12位。10位までがポイントをもらえるので、あと少しだったが難しかった。次回に期待したい。

終わってしまったのが寂しくて帰りあぐねていると、マーシャルと呼ばれるコース上の係員のような人たちが観客席に手を振りながら歩いて行った。
私たち観衆も全力で手を振り返す。
みんな終わりに気づきたくないのだと思った。こっちはまだまだ盛り上がれる。

しかし日本GPは終わり、大観衆の塊が個に戻って1人、また1人と席を離れていく。私たちも頃合いを見計らって
「行きますか」
と席をたった。
これからまた長いドライブが始まる。少しずつ日常に戻っていく。
娘が
「帰るの寂しい」
と言った。
「寂しいね」
と私が言った。
いつの間にか日は落ちて、空気は一層涼しくなった。

その後、帰宅客で渋滞する道路をぬけ、またショッピングモールでご飯を食べた。ご飯を食べる前にゲームセンターに行って娘がUFOキャッチャーをすると、なんと一発でデカいスポンジボブが取れた。
娘はそのボブの顔を見てゲラゲラ笑っていた。
ご飯の後また温泉にも入った。男性客は並んでいたけど、女性客は待ちなしで入れた。それでも夫の方が上がるのが早かった。温泉も満喫してしまったようだ。
そこからは、いよいよグッバイ鈴鹿、グッバイ三重県であった。
高速に乗って途中のサービスエリアで仮眠をとり、お昼に無事帰宅。わっせわっせと荷物をおろし、溜まりに溜まった洗濯物を仕分けして回していく。動けば揺れるキャンピングカーを返しに行った夫はそのままランニングして帰ってくるという。10キロくらいだろうか?娘はさっさと公園に行ってしまった。
私は洗濯物の音を聞きながら、こちらが動いてもびくともしない椅子に座って文章を書こうとしている。




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