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はじめに/開墾プロジェクト

今から話す事はごく「当たり前」の事なのかもしれない。
私はかなり不器用な人間で、一つ一つの事を経験することで、やっと周辺の人が考えているような「当たり前」の事を獲得していく人間だ。だからこそ、私が畑で野菜を育てていく過程で得たり、感じたりした「当たり前」の事をここでは話していこうと思う。

そもそも「当たり前」とは何なのだ、と思い辞書を引いた。

1 そうあるべきこと。そうすべきこと。また、そのさま。「怒って当たり前だ」
2 普通のこと。ありふれていること。また、そのさま。並み。ありきたり。「ごく当たり前の人間」「当たり前の出来」
(大辞泉より)

改めて、辞書で意味を知ると、つまるところ「当たり前」とは個々の価値基準の話なんだよな、と再認識する。私は街中から田舎に移住した人間で、まだまだ年齢も若い。だからこそ、周りの人が思っている「当たり前」に発見があったりするのだが、当たり前が当たり前のように使われて過ぎていて、本当にそれが当たり前なのかも考えるほどの猶予も人と人のコミュニケーション間には存在しないように感じていた。

例えば、人間は一人では生きていけないという事でも私がそれを本当に実感したのは集落に移住して畑作業を始めて人に手伝ってもらった時だった。一人でも畑作業は出来る。しかし、人がもう一人いると、自然と自らのやる気も出たし、作業も捗った。誰かと一緒にモノゴトを行うという事はこんなにも凄い事なのだ、と実感したからこそ、今の開墾プロジェクトに繋がったのだ。

きっと今の人間は当たり前を更新し続けてきたからこそ、今の文明や社会や生活があるのだろう。しかし、そこで生まれたものは過去の「当たり前」が通用しない人間の出現でもあるのだ。公衆電話の使い方が分からない女性や魚は実際に切り身のような状態で泳いでいると思っている子ども、私はサクランボが木から実がなる事を集落に来て初めて知った。
街中での暮らしはすごく便利で何事においてもスムーズに物事が進む。スーパーでは野菜や肉、味噌と何でも揃っているし、お金を出せばいくらでもそれらを購入することが出来る。夜中でも少し歩けばコンビニが開いているし、コンビニまでの道中は夜でも明るい。勿論、舗装された道路には圧倒的に虫が少ない。だからこそ、肉や魚や野菜が自分の手に届くまでどんな過程を経ているのか、考えなくても済むし、考える必要がないからこそ、知識も更新されない。
大体この手の話をすると想像力がないから、と言う結論に至る事が多いのだが、元を辿ればそんな事を考えなくても良い社会が生み出した結果であり、個々の問題と簡単に言い切れるものではない。何故なら知識がない所に想像力は生まれないからだ。

そんな私も元々便利な街中で暮らしていた人間の為、田舎の集落では本当に何も知らない人間である。隣のおばあちゃんが何気なくやっている事も、私にとっては新しい発見だったりするし、その過程で人間は一人では生きていけないとか、無理は禁物などの「当たり前」を獲得していく。
長々と話してしまったが、このプロジェクトはそんな地球上で立って生きていくための知恵を更新していく活動になるのかもしれない。

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