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師走、佐賀博多の旅

久しぶりの遠出、だいたい遠くに行く日は準備万端で家を出発する事が多い。しかし、今日はそうもいかなかった。新幹線のチケットは指定席で取っている為、電車を乗り過ごすことは出来ない。今、私はその電車を逃しそうになっている。さらに追い打ちをかけるように、家を出るとそこは濃霧だった。
これは電車自体が止まっているのではないか?と思ったが、しかし、出発しなければ話は始まらない。とにかく車に乗って駅に向かう。車に乗り始めて間もなく半年、少しは運転に慣れてきたと言いたいところだが、「慣れてきた時が一番危ない」と言われるように、それはそれでヒヤッとすることもある。私の場合は大体急いでいる時に何かが起こる。そんな私の予想は的中したのか、霧の中の道端で足を伸ばして座っている人が視界に急に現れる。驚いて、すぐにハンドルをきった。このまま道の真ん中を走っていたら、恐らく伸ばしていた足を引いていただろう、と思うとゾッとした。
その後は何とか駅に到着し、電車に乗ることが出来た。普段はほとんど電車に乗る事がないが、たまたま乗った電車は大阪まで乗り換えなしで乗れるものだった。今も昔も大阪までは必ず1回は乗り換えをする必要があったので、乗り換えがいらない事実に少し嬉しくなった。

新大阪から博多駅まで新幹線で約3時間。修学旅行の時に新幹線で博多駅まで行った事があったが、あまりにも暇だったことを覚えている。きっと今回も時間を持て余すのだろう、と考えていた。しかし、朝ごはんを食べて、noteを更新して、考えなければいけない事をノートに書き留めていって、そうこうしているうちに小倉まで移動していた。窓の外を見ると、工場の先に海が見える。立派な工業地帯の風景に圧倒されながら、博多駅到着後の乗り換え方法を頭の中でシュミレーションする。シュミレーションすればするほど、意外と乗り換え時間がタイトであることを認識する。後日談で一緒に佐賀を周った人から、私が博多駅の乗り換えが成功するか、心配されていた事を知る。それほどにタイトな乗り換えであったが、何とかこちらもクリアし、博多駅から特急に乗って佐賀駅へ。

その日は佐賀で用事を済ませて、宿泊予定地の博多へと向かう。初めて博多の地に降り立つが、私が思っていた以上に博多は都会である。立派な建物がいくつも建っており、人は多い。クリスマスイルミネーションに集う人々になんとも言えない師走感を感じる。

帰路では新山口で途中下車し、YCAMで行われている坂本龍一と高谷史郎の「ART–ENVIRONMENT–LIFE 2021」に行った。

会場に向かうと、係員の人が親しげに話しかけてくる。「坂本龍一の…」と言いかけると、あれよあれよと「ART–ENVIRONMENT–LIFE 2021」についてしっかり説明される。展示会場一つ一つに担当の係員がいるらしく、いつも美術館の会場にいる案内誘導スタッフとは異なる様子だった。会場に向かう途中、係員の人から「戦争のシーンもあって怖いかもしれませんが、それがずっと続く訳ではないので、安心してくださいね」と言われる。頭の中で何に対して安心するのだろう…?と考えつつも、どんどんと中に入っていく。会場の中は暗く、9つの水槽を真下から寝転がって見る為のクッションを渡された。

20世紀の音楽様式を精密にシミュレートした楽曲と、20世紀の歴史的事件の記録映像からなる坂本龍一のオペラ作品『LIFE』を解体/再構築するかたちで制作したインスタレーション作品。
中空に浮かんだ9つの水槽には霧が充満し、そこに映像が上方から投影されており、また水槽に対応して設置された9セットのスピーカーから発生する音が会場に響き合う。ゆらめく霧を透過して刻々と姿を変える映像と、降り注ぐような音は、同期と分散を繰り返しながら空間内で複雑に交錯する。観客は歩き回ったり寝ころんだりしながら、移ろいゆく光と音の世界に身を委ね、見えるものと見えないもの、聴こえるものと聴こえるものとの間にある界面へと知覚を開くことになる。(上記WEBサイトからの引用)

空中に浮かんだ9つの水槽は圧巻だったが、それ以上にゴゴゴゴゴゴゴと鳴る音に驚きつつも係員の人から言われた「安心してくださいね」という言葉を信じて、浮いている水槽を真下から見上げる。9つそれぞれから全く異なる映像が流れている訳でもなく、かと言って同一でもない。少しづつズレながら、それぞれの水槽が周辺の水槽をリンクするかのように映像が変化していく。私は9つの水槽の中で一番真ん中の水槽の真下に渡されたクッションを敷き、寝転がる。フワフワと揺らぐ水面に雨音のような音が聞こえてくる。横になっているせいか、雨音で少しウトウトする。
この作品は鑑賞者が自然や環境の中に入り込む装置として9つの水槽を展開している。私が聞いていた雨音も鑑賞者が「自然」と認知させるための一つの要素でもありながら、リズムとしての音楽でもある。しかし、リズムや音楽となるとたちまちそれは人間の作り上げる「音楽」との関連が近くなる。

「自然」が「アート」である所以とは何なのか?

ふと、そんな疑問が浮かび上がる。音楽やリズムはあくまでも記号化され、人間が再演、再生可能なように出来ている。文字や数字だってそう、人間同士が情報を伝達しやすいように作られたものだ。いや、待てよ。フィボナッチ数列という考え方もあるよな…。

フィボナッチ数列とは、「1、1、2、3、5、8、13、21、34、55、89...」と、どの数字も前2つの数字を足していく規則の数列だ。この数列はヒマワリの種などの規則性にも当てはまるもので、この数列が数学的な記号と自然が全く交わらないものではない事を証明している。
そんな事を考えていると、まるで私の今までの思考の答え合わせかのように、水槽には無数の数式が映し出される。つまり、全ては自然に帰依する、という事なのだろうか?しかし、そんな事を言う為にこの作品は作られたのだろうか?

その日は雨だった。水槽の映像と一緒に聞こえる雨音ほどの雨量で、きっと私はこの場所でなくても、ここと同じような雨音を過去に何度も聞いているはずだ。ふと、日常に溢れる雨音や自然がアートではなく、この作品がアートである事の違いが気になった。何を持って「アート」と言うのだろう?
大学院では現代アートのゼミに所属していたが、いつも「アートとは何か?」という問いには簡単に答えることは出来ない。うーん、といつも考える。

YCAMを後にして、新幹線に再び乗る。帰りの新幹線の中で、しばらく続く田畑の風景に昨日更新したnoteを思い出す。

その記事を書く中で、昨年執筆した修士論文を見返していた。その時に、自らが書いた文章があまりにも眩しくて、キラキラしていて、自分自身がとんでもない文章を書いた事に気付き、驚いた。論文では所々、自分の主張の為に強い言葉を使うものの、それを緩和するかのように他の言葉がキラキラと輝いている。これは何が起こっていたのか?今の私では書けそうもない文体で、しばらく頭を抱えた事を思い出した。

現実が想像の世界を超える事はしばしある。有名な話だと、9.11で飛行機がビルに突っ込む映像をある映画監督が見て、「これか正解だ」と不謹慎だと分かりつつも、つぶやいた話。そういう意味では今、私がいる環境では常に現実が想像の世界を超えてくるのかもしれない。いや、自然が示す現実の大きさに私自身が受け入れることで精一杯なのだろう。
私の実家はキラキラ世界だった。人間が人間の為に作った人間が住みやすい世界で、夜中にボーッと外を歩いていても、鹿や狸に会うことはない。周辺環境にしっかりアンテナを張り巡らさずとも、簡単に生きていける。良い意味で浮ついているのだ。
そんな余裕があったからこそ、文体がキラキラと輝いたのかもしれない。何だか言い訳のようにしか思えない結論に、モヤモヤする。しかし、私の目の前で起こる現実を伝えようと思うと、キラキラな文章を挟む余裕がないほどに、必然的に強い言葉を使わざるおえなくなる。伝えたい気持ちがそうさせてしまうのだろうか?

そもそもキラキラな文章を復活させることが、私の望む事なのだろうか?うーむ…。と考えつつ、意識は日常や自然がいかにアートになるか、へと議題が飛んでいた。まさに私は、自らの日常をアートへと変化させようとしているのだが、それは一体どこからアートになるのだろう?
YCAMで見た「ART–ENVIRONMENT–LIFE 2021」の事を思い出しながら、あの作品は単純に「自然良いよね!」「自然最高!」のようなよくある啓蒙的なものではない気がした。自然が良いことは皆、分かっている。今更そんな分かりきった事を作品にして声に出してもあまり意味がない。
グダグダと外を窓に映る田畑を見る。これが、アートだと言えるようになるには何が必要なのか?その時、ふと「変換」という考えが浮かんだ。そうだ、アートにするには「変換」が重要なのだ。数列にしても雨音にしても人間が発見して、伝達可能なように変換することで、人類が構築してきた知識の一つとなる。作品も数列もこうした人間同士の伝達物としての役割を持つ。至極当然のことかもしれない。しかし、改めて考えてみて、妙に今まで考えてきた事と合致し、納得した。

帰りの普通電車で、母親が一緒の電車に乗っている事を知った。途中の駅で同じ車両に合流し、乗り換え駅のスターバックスに行く事になった。やはり母子は似るもので、サイズも飲み物のメニューも同じものを注文していた。
スターバックスはいつもオシャレで綺麗なお姉さんがカウンターに立っているイメージが強いが、この日は半袖でしっかり筋肉の付いたお兄さんが飲み物を作っていた。その様子に少し驚いたものの、まぁ飲食店ってそんなもんだよな、と思い返す。お菓子作りや料理は力仕事であるように、カフェの店員さんも体力勝負な所はある。席に座って、私は気付けば母親とNIZIUの話をしていた。しかし母親はNIZIUよりJO1の方が好きらしい。「韓国ドラマを一日で一気見したから、今日はヨガに行こうと思うの」と言う母親に「行った方がいい」と背中を押す。
カフェには色んな人が集まる。資格の勉強をしている女性、ビジネスをしてそうな雰囲気の学生3人組。一瞬親子かな?と思うものの、年配者の様子がイマイチ親子らしくない2人組。皆、それぞれ良い観客だなぁ、なんて根拠もないけど思ってしまう。

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