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「できる」と能力主義と


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僕は「能力主義」社会に対する疑問を投げかけながら自身のコミュニティを運営している。能力に長けた者が総取りするという世の中に対する疑問である。

ひとつ記事を紹介する。

この記事を書いているのは僕のコミュニティに参加してくれているメンバーである。世間的な意味でも実際のコミュニティの運営においても、とても能力の高い人物である。おそらく、これまでの人生、自身の能力を基準として周りがその基準に達していない時に一定のイライラを感じながら生きてきたことと思う。それが多少なり、できることとできないことを相対化して見てくれるようになったことを、とても嬉しく思う。他人の心境の変化を僕が嬉しく思うのも変な話であるが、素直な気持ちである。

ただ、僕としてはもう一歩踏み込んだ感覚があるので、この機会にそれも伝えてみようと思う。

  • 自分にできることを他人ができなくても良いではないか。

  • 他人ができることを自分ができなくても良いではないか。

これは、アイデアとしてとてもうまく機能しそうに感じる。でも、僕はもう一歩踏み込んで考えている。上のアイデアは、「できる」という表現に、ある種の優越を初めから認めている。認めているからこそ、「それでも良い」という提案で上書きしようとしているわけだ。

「できる」という表現は、当たり前であるがその「能力がある」ことの言い換えである。そして、一定の能力があって出力される結果(成果)が通貨と紐ついて社会で流通するわけだが、僕はシンプルにそこに問題を感じている。つまり、できるという表現、概念そのものが変わってゆく必要があると感じている。教育という側面から考えても、「できるできない」で線引きしておきながら、それでも「皆平等である」という矛盾したアイデアだけを表面的に押し付けても空疎な空回りしかしない。だから、「できるできない」の線引き自体をもっと低次元(義務教育レベル)に設定し、その先はやるかやらないかという動機(モチベーション)の線引きにすべきだと考えている。

(この議論には「義務教育とは何か」という線引きが必要なので今回の論点だけで完結させることはできない。申し訳ない。)

つまり、上で引用した記事の著者であるNaokimenが高度な物理学を修得していることや様々なマルチタスクを当たり前にこなしている事実を、能力ではなく動機の問題としてとらえる。それができて初めて能力主義社会への提言を考えるきっかけがつかめるようになるのだと感じている。ただ、動機というのは、資本主義的な感覚においてはそれがそのまま比例して結果を出力する変数として認められにくいため、当然資本主義的な感覚も変更を検討する必要がでてくるだろう。動機で給料はもらえない。

  • 能力から動機へ

それだけ聞くと、なんだか意識の高い人々がどこかで使い古した概念、言葉のような印象も受けるが、今現在何一つそれは実現されていないのだから、これはもっと真剣に考える必要がある。

アップデートのパッチではなく、新しいソフトウェアでもなく、新しいハードウェアの設計が必要なのだろう。それはあまりに壮大な話であるが、少なくとも、能力と動機の問題は少し考えてみてもらっても良いかもしれない。僕も自身の小さな小さなコミュニティの中で、「結果」という概念を、能力ではなく動機からとらえるという訓練を自らに課し、行なっている。


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