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闇のカーニバル 「甦る縄文の思想」


この夏、念願の青森は弘前ねぷた(青森は”ねぶた”、弘前は”ねぷた”)を見ることができた。いつか本物が見たい!と思って19年(光陰矢の如”し)。とうとう来れた。

弘前ねぷたの山車は扇型が特徴。青森ねぶたでみられるような張子による組型は少数派。青森市のようにスポンサーはつかず、町内会独自で行われる。こちらは今年の知事賞を受賞した茂森新町のねぷた。絵師は三浦呑龍さん。

ねぷた祭りの印象は、古代のプロジェクションマッピング。闇のカーニバルの来た道を遡っていくと縄文時代にたどり着くに違いない。



青森そしてねぶたに興味をもってから随分時間が経つ。
2001年の9月、ニューヨークで同時多発テロが起きた頃、私は山梨のギャラリー・トラックスに滞在中だった。世界中で金融資本主義とグローバリゼーションの嵐が吹き荒れる中、突如として起きた大惨事。テレビから貿易センタービルの爆発映像が繰り返し流れてくる日々、オーナーの書棚で見つけた一冊がこの『甦る縄文の思想』(1993年) である。

ハネトに扮して。仙台出身の梅原猛と新宮出身の中上健次。


もともと私は梅原猛さんと中上健次さんのファンだ。それぞれの著作を片手に熊野に旅したこともある。しかし、こんな面白そうな共著本が出版されていたのを知らなかった(実は『君は縄文人か弥生人か』に続き二冊目 )。 現代の縄文人が青森を舞台にねぶたを楽しみ、地元の識者とともに鼎談している(しかもこの本に出会った山梨も縄文の地だ)。

21世紀になって、近代資本主義/グローバリズムに綻びの兆しが見え始めた頃、私に「縄文」「東北」そして「ブナ林」といったキーワードを教えてくれた、梅原猛と中上健次。縄文を発見したのは岡本太郎だけど、彼らはよりわれわれの暮らしにつなげてくれた。

そしてこの本との出会いから、一冊の写真集が生まれた。八甲田には、今も定期的に撮影に通っている。

以降、私は「モダン」を見つめるときは必ず「クラシック」に眼差しを向けるようになった。もしくは「光」を見るときはその対局にある「闇」を。「迷ったら昔に遡って考えろ」。 知の巨人は今も天国から教えてくれる。

グランドゼロのタイミングでこの本に出会えたことは、少なからず今の自分の方向性を決定づけたと思っている。そのくらい東北/青森はわたしを魅了してやまない。

今回、念願の青森は弘前のねぷたを見たのち、改めて『甦る縄文の思想』を読み返してみた。当時、ドキドキしながら読んだ言葉の数々は、20年近くの時を経て、さらに深く心に響いている。




この「ねぶた」を見て私は、やっぱりここにもあの素晴らしい縄文の精神が宿っていると感じました。(梅原猛)


弥生文化というのはどちらかというと理性の文化、技術の文化で、縄文文化は情熱の文化であり精神の文化だと思うのですが、その情熱と精神の文化がねぶたに宿っていると思ったわけです(梅原)



僕は紀州熊野生まれなんですが、熊野というところを考えますとやっぱり縄文的なんですよ。
なぜ僕が縄文というものに惹かれているのか、縄文を自分の実存とか存在とか、自分が縄文的に生きなくちゃいかんと思っているのかといいますと、やっぱり今の現代社会、僕は東京に住んでいますけど、東京にいるとだんだんものが見えなくなるんです。
人間を表面だけじゃなくてもう少しもっと奥まで見なくちゃいかん、表現も奥まで筆を届かせなくちゃいかんということを考えたわけです(中上)

縄文人の考え方は、何度もいいますが、狩猟採集の考え方なんです。だから木は必要以上に切ってはいけない。その縄文の考え方が日本人のバックボーンにあり、特に東北に強かった。
農耕牧畜を発明した人類は文明を豊かにしたけれど、それはひょっとしたら滅びへの道を用意しているのかもしれない(梅原)


美というものはどこかに存在しているんですが、誰かが発見しないと美ということにはならないんです。爆発する芸術を日本で探していたら縄文土器だったというわけです(梅原)

どの人間の中にも眠っている、よく生きようとする非常に強い本能的な力が、縄文的なるものの中に見いだせるんです〜これはさっき申しました弥生的なるものの特性というか硬直しやすい文化、制度的な文化にあい反するものなんです(中上)


「ねぶたフェスティバル」というより、「ねぶたカーニバル」といったほうがいいんじゃないか (梅原)

非常にディオニソス的な瞬間。そのディオニソス的な感性みたいなものがねぶたというか(中上)


宇宙のいいことも作り出し、悪いことも作り出すような、さまざまな例のかたまりとして祖霊を送る、そういうことでねぶたがあると思う。(中上)


僕の小説の舞台でもあり故郷でもある紀州、熊野あたりというのは、やはり縄文的な色彩が強いところだと思っています。畿内のなかにあって、そこだけ縄文が残っているというのは何だろうか、と考えるんですが、沖縄と東北を結ぶもの、沖縄と津軽を結ぶものは黒潮海流なんですね(中上)

棟方志功さんの作品はやっぱりねぶたそのものですね(梅原)


縄文というのは実に開放的で外から来たものは誰も拒まない〜はじめて「ねぶた」に出くわした時、僕はそこにスッと入っていけた。要するにいつ入ってもいいし、いつ出てもいいという形なんですね(中上)

人間中心ではなくて、宇宙から人間を見ているわけです(梅原)


仏教国になったのは日本の真ん中の地域だけで、北と南にはあまり仏教が入ってないような気がする(梅原)

縄文というのは富の蓄積が少ない(中上)


もう一つ気付いたのは、縄文というのは、時間をワープして出てくるんですね。縄文的なものというのは、もともと人間の古層にあるものですから、“時間”は線形に流れてくるだけではなく、ある時、ワープして出てくるんです(中上)


今、縄文文化が世界史的に重要な意味を持っている時代がきたと思っています。縄文の精神の上に経って芸術ばかりじゃなく、いろいろな宗教や道徳や政治の部門でも、そういう精神を根底に置いて生きていけば、新たな日本文化の生きる道が自然にでてくるのではないかというふうに考えているのです(梅原)


縄文の魂はデコトラ?
中上健次と青森。ねぶたはまさに 彼の著作『日輪の翼』の主人公・ツヨシが運転するデコトラそのものだ。 旅の一行は、ねぶた化したデコトラに乗って、酩酊の神ディオニソスとともに、熊野から恐山へと向かう。 
闇のカーニバルは永遠に続く。

帰りに立ち寄った居酒屋「わいわい」のご主人と、今回アテンドしてくださった弘前大の小田桐くん。後ろのねぷた絵は茂森新町のねぷたを手がけた三浦呑龍さんによるもの。 津軽人かっこいい。

さて、まもなく弘前で新しいフォトプロジェクトがはじまる。楽しみだ。


やなぎみわさんによる『日輪の翼』。まさにねぶたです。

デコトラねぶたもあるんですね。

写真 小田桐大空 


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