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オベロンの本当の望みは一体何だったのか?【FGO第二部6章考察】

[注意 このnoteではバリバリFGO第二部6章のネタバレをします。まだ未プレイの方は読まない方がいいかもです!]


きのこ先生、一生ついていきます。
でもそれはそれとしてあんた人の心ねえな。

というのが、僕がFGO2部6章をプレイして感じた感想だった。

だってさあ、本当に救いがないじゃない、ブリテン異聞帯。

誰よりもブリテンのことを愛したモルガンは、またブリテンに裏切られ、大切なものを守れなかった。
誰よりも清廉で可哀想なバー・ヴァンシーは、今までと同じようにまた悲惨な結末を迎えてしまった。
誰よりも正しく生きようとしたバーゲストは、獣に成り果ててしまった。
誰よりも個人を深く愛したアルビオンは、愛に裏切られて龍に成り果ててしまった。
誰よりも恋に焦がれていたノクナレアは、恋をほとんど知ることのないままに死んでしまった。
誰よりも女王を愛していたはずのウッドワスは、最後までその愛を信じ切ることができずに死んでしまった。

誰も彼も、救いのないままに、獣となって死となって。
救いなんてロクに与えられずに無情にもブリテンは消え去っていった。

なんて悲しい物語。なんて辛い物語。
そしてそれをもたらした元凶であり、この6章のラスボスであり、そして彼の言葉を借りるなら「今までの異聞帯の王が負け犬だったのに対してきっちり目的を果たしてしまった勝ち馬」が、今回僕がお話したいオベロン・ヴォーティガーンという存在だ。

彼は本当に素晴らしい悪役だった。
自分の信念に基づき、しっかりと仕事をして、主人公たちを成長させた。

でも、そんな彼との物語の中で、1つだけ謎が残っている。
みんなも少し気になったんじゃないだろうか。

結局オベロンは、何がしたかったんだ?」と。

だって彼、どう考えても変なのだ。
ヴォーティガーンとしての役割はブリテンの終わりでしかなくて、「気持ち悪いから」と言うめちゃくちゃわかる理由でブリテンを滅ぼそうとしていた。

だがそれだけではなく、カルデアや汎人類史すらも滅ぼそうとしていた。

そして最後にはこんな風に言っている。


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「ティターニアのために汎人類史を無くすという、僕の願いは叶わなかったな」

なんで汎人類史を無くすのがティターニアのためになるんだよ、とツッコミを入れたくならないだろうか?

さて、僕は今回、ここら辺のオベロンの心情を1から考察して見たいと思う。

結論から言うと、僕はティターニアは「アルトリア・キャスター」だったんじゃないかと思っている。彼の救いは、彼の願いは、アルトリアのためにあったのではないかと思うのだ。

1 前提の整理

まず前提を整理しておこう。
オベロンは、この異聞帯におけるアルトリアの師・マーリンだった。

初めてマーリンの声が聞こえたとき、アルトリアは「飛べないの?」と聞いた。
そしてオベロンは最後の時、「翅は飾りだ、バーカ」と言った。

マーリンのフリをして、アルトリアを助け続けたのがオベロンだったのだ。
(これは、8月12日更新の竹箒日記で9割確定している情報だと言っていいだろう)

きっとオベロンはアルトリアに魔術を教えようなんて全く考えていなかったはずだ。それが、アルトリアのあまりにも悲惨な状況を見るに見かねて、助けてしまったのだと思う。
オベロンの絆6のマテリアルを読むと、オベロンは異聞帯のオベロンだけではなく、汎人類史のオベロンも含めて存在していることがわかる。だからアルトリアの師として名乗るべき名前として、「マーリン」の存在を知っていたのだと思う。

そこでオベロンはアルトリアと話し、彼女の運命を知った。

ここまでは、ほぼ確定的な情報だと言っていいだろう。
ここから先は、僕が考えている考察を述べていこうと思う。

2 オベロンは、何がしたかったのか

さて、オベロンは、最後の最後に本音を語ってくれた。
その中で、彼はこう述べている。

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彼は、「物語」というものが嫌いなように見える。シェイクスピアに毒入りのファンレターを送ろうとしたり、ナーサリーライムに「ねえねえ読み手全員ブッ殺してからお茶会開こうよ」と言っていたりすることからも明らかだ。
でも、モルガンに対しては逆に、「あんたの描いた絵本、俺は嫌いじゃなかったぜ」と言っている。あんなに物語を否定している彼が、物語を肯定するタイミングもある。これはなんだか、ちぐはぐな印象を受ける。

彼は本当は、何が嫌いなのか?
その答えはきっと、「物語というものを優先して、役者を蔑ろにすること」が嫌なのだと思う。

綺麗な物語を作るためには、登場人物の犠牲が必要だ。
悪役として消費されたり、美しい自己犠牲をしたり、または脇役として忘れさられたり。
美しい物語であればあるほど、その美しさを作るためにいろんなものが犠牲になっている。

「美しいものはその前提が醜く、醜いものはその前提が美しい」

と彼は再臨4の時に語っているが、これはそういう話なのだと思う。

「マッチ売りの少女」はとても美しい作品だが、少女はほとんど救いなんてないままに死んでしまった。「人魚姫」も「舌切り雀」も、みんな物語が美しければ美しいほど、登場人物の人生は醜悪なものになっていく。

それは、「アーサー王伝説」でアルトリアが人身御供だったように。
そして、「FGO」という作品の中で主人公の人生が犠牲になっているように。

おそらくだが、今劇場で公開している終局特異点の映画をオベロンが観たら「うわあ、気持ち悪いなぁ」と言うのではないだろうか。
マシュや主人公が犠牲になって死んでいくのを観て、憤るのではないだろうか。

対して多分、マーリンは何も思わないのだと思う。世界という一つの絵が綺麗でありさえすればいい。映画自体が美しければ、どれだけ個人が醜くてもいいのだと思ってしまう。だからマーリンのことをオベロンは嫌っているのだと思う。

要するにオベロンは、物語が嫌いなんじゃない。物語になった時に犠牲になる個人が嫌いなのだ。そして誰かが犠牲になる物語を観て感動する読者を観て、「気持ち悪い」と思っているのだ。

「失意の庭」のオベロンは、本物のオベロンではないと竹箒にて明言された。あれはただ、主人公が観た幻覚だと説明されている。

しかし、「きのこの言うことを信じているようでは型月ファンとしては2流」という格言があるように、彼の幻覚は彼の考えを反映していないわけではないだろう。

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「キミさあ、ちょっとおかしいよ。」

これはオベロンが主人公に対して考えていたことと大きく違ってはいないのだと思う。

なぜオベロンは、アルトリアのことを助けたのか。
その答えはきっと、ここにあるのだと思う。
アルトリアは、「世界を救う」という目的に縛られている存在だ。
しかもこの「世界」というのは、ブリテンのことではない。

汎人類史を救うのが、彼女が背負った運命だった。
そして、アルトリアが世界を救い、主人公たちが世界を救う物語の中で、アルトリアや主人公は、消費される運命にある。
「世界を救う物語」の中で、無限に戦い続け、正常であることを許されず、奴隷のように生き続けることが求められるようになってしまっている。
そしてもっと言えば、この物語の読者は「僕ら」だ
このFGOという世界が盛り上がるように期待し、そういう目で登場人物を見ているのは、他ならむ僕らなのだと思う。

オベロンが憤ったのは、そういうことだったのだと思う。

このままアルトリアが自分の役割を完遂して、自己犠牲をして、主人公たちが未来を切り開く。
生きている限り、そうすることが求められてしまう。
それを変えたかったから、汎人類史を含めた世界を壊そうとしたわけだ。

「何も俺が特別なわけじゃない。
大切なものがあろうとなかろうと、誰だって終末を夢見ることはある。
自分の責任ではない死。自分たちでは変えようのない終わり。
そういうものが救いに思える時が、人間には、必ずあるのさ」


カルデアに召喚されたオベロンはそんな風に語っている。
彼の存在意義はきっと、そこにあるのだと思う。

Q 世界を救わなければならない運命を背負っている人を救いたいです。どうすればいいですか?
A 救うべき世界自体をなくそう。そうすれば救えるはず。

これはシンプルに言うと、そう言う話だったのだと思う。
自分で終われないのなら、自分が終わりをプレゼントしよう。
ブラックジャックのドクターキリコではないが、彼はアルトリアを安楽死させたかったのではないだろうか。


3 ではオベロンは、何に満足していたのか。

じゃあ、仮にティターニアがアルトリアだったとして、オベロンはなぜ、最後に満足していたのだろうか。

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だって、彼の本当の願いは叶わなかったんだ。
ティターニアのために世界を滅ぼすことはできなかった。
それなのにもかかわらず、彼は満足していた。

それはなぜか。
きっとそれは、ペペさんが死んだ時の言葉がヒントになっているのだと思う。

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私たちはね、基本的にロクデナシ。
"続ける事"より"終わる事"を考えていた。

この二項対立は、実はとても重要なものだ。この6章の裏テーマなのではないかと思うくらいだ。

この章で出てくる登場人物・ペペロンチーノも、ベリルも、そしてオベロンも、「続ける事」よりも「終わる事」の方を考えている者たちだった。

人類は「続く」ことが正義だ。
より長く・効率よく繁栄することが、「人の世」という物語の目的だと言える。

でもそれは、物語としての話。
1つの絵として物語を見れば、続く事が求められる。
でも登場人物はそんなことはどうでもいいし、長くその物語の中にいれば、続けることに疲れてくる。

だから、続ける事より、終わる事をのぞむような者達が現れる。

そしてペペさんは最後に、こう言ったのだ。

「私みたいな人間に、その背中が見えなくなるくらい、遠くまで走っていって。」
「そこまでしないとひとりで死ねないの。臆病だから。」

これこそが、オベロンが満足した理由なのではないだろうか。

オベロンが満足したのはきっと、アルトリアや主人公が、遠く遠く、見えなくなるくらいまで遠くに行ったからなのではないかと思うのだ。

「続ける事」を求める人たちにとっての救いが「終わる事」なのであれば、
その逆に「終わる事」を求める人たちにとっての救いもまた、「続ける事」なのではないかと思う。

近くにいたら、終わらせたくなる。
危なっかしくて見てられなくて、助けてあげたくなる。

でも、すごく遠くにいるのであれば、安心できる。
ああ、きっと自分のような終わりは求めていないのだと安心して、見送ることができる。
臆病だから、そこまでしないと、安心できなかった、と。
これはそう言うことなのではないだろうか。

ベリルもそうだったのかもしれない。ベリルは、最後の最後でマシュから拒絶されて、その拒絶を聞いて満足そうな顔をして息絶えた。
それはマシュが「遠く」に行ったのだと気付いて、満足したということなのではないだろうか。

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マイクもそうだ。ダビンチが近くに戻ってきた時に、彼はモースになろうとした。でもダビンチが遠く遠くに行くのを見て、安心したような顔をした。

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ペペさん、ベリル、マイク、そしてオベロン。彼らはみんな、終わりを祈っていて、そしてだからこそ、遠くで続くものがあると安心して終わりを迎えられるのではないだろうか。

4 まとめ

以上が僕の、オベロンの考察だ。勝手な考察で申し訳ないが、しかし綺麗に考察できたので、共有させてもらった。

今回の物語は、「続けること」と「終わること」の二項対立で読み解いていくと、全然違う世界が見えてくると思う。

モルガンは続けたかった。だが妖精達は、終わることの方が好きだった。
逆に、妖精騎士たちはみんな続けたいと思っていた。でもそれを裏切ったのは、終わることを望む妖精だった。
アルトリアも終わりに寄っていた。けれど、続きを見ようと決意した。
そして「続けること」の住人の、主人公やアルトリア・マシュやダビンチを見て、多くの「終わること」の住人が、後を託して満足そうに消えていった。

そう考えると、オベロンが最後に満足した理由がわかるのではないだろうか。

さて、最後に一つだけ、聞かせて欲しい。
あなたは、続けたいか?それとも、終わりたいと思うだろうか?

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