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【世界考察26】価値相対化の条件

最近は価値相対化の話が多い。価値相対化の極地として頻繁に(と言っても数回だが)取り上げているのは次の文章である。

市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったくおなじである。

「カール・マルクス」(吉本隆明)

この文章はその辺のおっさんだろうが、マルクスだろうが、全く同じ価値だと言っている。入れる人物はなんでもいい。大谷翔平。街を歩く人。総理大臣。漁師。ニュートン。フリーター。ジョブズ。誰を入れようが価値は全く等しいということだ。

ここでは究極の価値の転覆と相対化が行われているのだが、伝わらない人には1ミリも伝わらないであろうことは疑いない。学歴厨に学歴の意味を問うても意味がないことに似ている。ただし単に伝わらないというだけで、伝わることがいいわけでもない。その辺りはこれまでの世界考察でも述べている。ある程度社会から逸脱しないと相対化には行きつかないからだ。

価値の相対化は普通に生きていて身につくものではない。その辺を歩いている人が、こんなに特殊な価値観をもっているはずが無い。もっている必要もない。吉本なら、こんなことを気にせず生きている人の方が高級であると言うだろう。異論はない。ただ、どうやったらこの価値の相対化が身につくのか、という点について、経緯に興味がある。

吉本の価値の相対化に関係しているのは、ひとつは敗戦経験だと思われる。ある日突然、絶対だと思っていたものが全て崩壊する、ということを身をもって経験している世代だ。ただし、それでも価値が相対化された人もいれば、されなかった人もいる。なので生来的な資質もあるだろう。そして吉本が完全に相対化へ振り切れたのは、望み通りの人生にならなかったことが大きいように思う。

吉本は元々、東工大に入り化学者になろうと思っていたらしい。しかしあれやこれやのゴタゴタに巻き込まれ、紆余曲折を経た挙句、化学者として生きていく夢は水の泡と消え、翻訳や著述で食いつなぐことになったという経緯がある。吉本家で大学に入ったのは吉本だけのようで、本人の望みは叶わず、周りの期待にも応えられなかった、という挫折があったと推測する。

価値の転倒とは、信じていた価値が破壊されることから始まる。そのひとつは敗戦。もうひとつは理想の人生からの逸脱。そこに本人の気質が加わって、価値の相対化が徹底されたのではないだろうか。

頭の中でいかに相対化を唱えても意味がない。思想とは常に現実の体験とセットである。吉本の思想が口だけに留まらないのは、身から出てきた思想だったからに違いない。

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