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”考えを共にすること”について色々と考えたけど、とりあえず。

最近、自分の行動パターンというか、何か行動を起こす、決断を起こすまでの流れが腑に落ちた感覚があったので、書き残しておきたい。

性格診断などで、「直感型か思考型か」を診断されたことが幾度となくあるように思う。私は、大体その中間にいて、その時々によって直感に寄っていたり、思考に寄っていたりするのだ。

大きく値が振れているわけでもなかったので、特に気にしたことはなかったのだが、最近自分の行動パターンをふりかえってみると、不連続な思考と直感で動いているように感じた。

不連続な思考と直感


つまり、いろいろ考えを張り巡らせて論理的に正しいと思えるような答えを出して、その答えとは違う動きを直感で選ぶ。いろいろ論理的に考えたうえで、論理飛躍させた答えを言う。

こんなことを考えて、私はこう思ったので、こう動きます!
という流れるような思考と行動ではなく、
こんなことを考えましたが、とりあえずその考えは放っておいて、別の動きをします!
みたいな感じ。

この不連続な思考→行動が顕著にあらわれたのが、前職を続けるかやめるか考えていたときだった。

これが、4月に書いていたnote。
自分はこの業界で、この会社で何がしたかったのかを見つめ直し、あと数年は働いてみよう、と考えながら書いた記事。

そして、6月末に会社をやめたnote。
1か月前まで、「いろいろ考えた結果、あと2年は働くことにしました」と、話を聞いてくれていた人たちに報告をしていたと思ったら、突然の退社。

不連続すぎる。いろいろ考えたものはどこへ行ったんだよ。

会社をやめるという判断は、結局そのときの直感でしかなかった。行動力、勢いがありすぎるとも言われた。周りから見たら、意味が分からない判断かもしれない。

実際、いろんな人を驚かせ、困惑させてしまったように思う。

直感は経験に基づく

先日、今書いたようなことを人に話す機会があった。

私は結構考える方の人間だと思ってるんですけど、同時に直感で動くタイプの人間でもあるんですよね、どっちなんでしょうね、と。

これを聞いた人は、「それって、思考型と直感型の良いとこどり出来てるってことじゃないですか?」と言った。

「ひなさんの直感は、今までの人生で考えてきたものや、たくさんの経験に基づいたものだと思います。その直感を信じられるということは、自分の考えや経験がちゃんと身になってるってことじゃないですか?」と。

なるほど、私は、私自身の直感を信じられるようになったのか、と少し腑に落ちた。24年間、何十万回、何百万回と下してきた判断が知らないうちに蓄積されて、私の思考や判断基準が出来ている。

自分の考えで動くのが怖かった

そういえば5月頃の悩みは、自分の感覚を価値下げしてしまうことだった。自分の考えたこと、感じたことの優先度を低くとらえてしまう、自己肯定感の低い人間だった。

人に何か相談されても、いろんな目線で考え、「社会的にはこうじゃないか」「こんな意見の人もいるかもしれない」と超客観的な答えを出していた私。

自分のことを話す時間なんて誰の得にもならないし、私がどう思ったかなんて重要じゃない、と思っていた。

会社を続けるか辞めるか、という選択肢が目の前にあらわれたとき、生まれてはじめて「自分の気持ちで大きな決断をする」ことの必要性を感じた。それまでは、「周りが良くなるように動く」という判断基準で行動していたのが、それでは乗り越えられない決断を強いられた。

でも、周りに身をゆだねながら、私はずっと考えていた。
「なんか嫌な予感がするな、でも従うか」と思いながら判断したときは、失敗したあとで「やっぱりな」と思っていた。

これは完全に逃げだ。嫌な予感がしたなら絶対に言った方が良いし、言わなかったくせに後から「自分のせいじゃない」と納得させるやり方は、本当に良くない。

だけど、そんな経験がたくさんあるから、自分の予感とか直感に対して知らず知らずのうちに信頼をおけるようになっていたのだろう。

会社をやめるという大きな決断を、その直感に従って下すことができて、何も後悔はしていない。この決断がまた、私の直感への信頼を上げたことになるのか。

思考を外に出すということ

この社会で、一人の人間として生きていくにあたって、誰かと考えを共にすること、行動を共にすることは必要不可欠だと言える。

そんなとき私は、人に合わせることを選んで生きてきた。
その方が楽だし、うまくいくと思っていたから。

だけど、それでは自分を生きている心地がしなくなってくる。
そして、自分の判断や自分自身の人生に、責任を持たなくなるのだと思う。

だけど自分の考えを外に出すのが苦手だった。
自分の思考と直感が一致していないので、そのすべてを外に出すと逆に周りを困惑させるのではないか、と考えてしまう。
「こんなこといろいろ考えたんですけど、とりあえず直感でこう思ったのでこうします!」って、考えた部分いらなくない?って思えてしまう。

だけどね、多分、自分の行動を選ぶのは自分の判断だけじゃない。誰かと考えや行動を共にすることって、その結論を合わせるだけじゃない。

「直感でこう思ったのでこうします。あなたは?」
と聞かれるのと、
「こんなこといろいろ考えたんですけど、とりあえず直感でこう思ったのでこう動こうと思うんだけど、どうかな?」
と聞かれるのと。

自分が問われる側だとしたら、後者であれば、その人の考えを自分の中に取り入れた上で、また別の提案ができる。結論だけじゃなくて、そこに至る経緯までを共にすることができる。

あぁ、本当に協調性がある人ってこういう擦り合わせが自然に出来る人のことを言うのだろうな。私は周りに合わせられるというだけで協調性があると言われてきたのか。

だけど、この意味が、大切さがわかったから、少しは苦しみながらも自分の考えを出すことは出来るようになった。

多分、少なくとも、半年前の自分よりは成長している。

あとがき

そういえば、今書いている「自分の考え」って論理的に考えたものじゃなくて、自分が感じたことを文字にしているだけだなぁ…ってことは、私の思考だと思っていたものは論理的な自分の考えじゃなくて、客観的な目線で考えたものだったのかもしれない。

あぁ、なんか分からないけどとりあえず、感じたことや考えたことを外に出す練習してみようっと。多分、また何か気付くだろう。

カバー画像を焚き火にしたのは、「火ってすごく連続的だよなぁ」と思ったから。

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