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勉強しないんだけど

「勉強」

親になって、この言葉に触れずにいられる人は少ないのではないでしょうか。高学歴の子どもを育てる親は「勉強しろと言わない」という言葉はよく聞きますが、それは勉強しなくてもそこそこできたからではないかと疑ってしまう元教員とは私のことです。

勉強とは世間一般的に「学校で習う教科の学習のこと」と解釈されています。

私は今、中学校の中で不登校傾向の生徒の支援員をしています。雑に言うと、教室に入れない子のために作られた場所にいる人です。

仮に自分の子どもがいて、何らかの理由で教室に入ることができないとします。ちょっと前は家で過ごすことが多く、最近この部屋で過ごすようになりました。今日は1日絵を描いていたとしましょう。別の日は、カードゲームで遊びます。また別の日は、パズルをしています。

いわゆる勉強はしていません。勧めても嫌だといってやろうとしません。こんな感じが一ヶ月続いています。さて、どうお感じですか?

ちょっと想像してください。一度でいいので。誰もが不登校になり得る時代です(ちなみに教員も不登校になります笑)。

さて、親御さんのあなたはどう振る舞いますか。学校に別室登校して、絵やパズルやカードゲームで過ごして帰ってきました。帰ってきた瞬間ではなくてもよいです。みなさんがお仕事から帰ってきたときでもよいです。できるだけ主観で考えて欲しいです。あなたのお子さんがという視点で考えて欲しいです。

ちなみに、私のところに通っている子に対し、多くの教員は、「今日は良く来たね。今日は何したの?そう、楽しそうだね。じゃあ遊ぶだけじゃなく、ちょっとは勉強してみない?」とか「来年くらいには教室に行けるといいね」と言います。職員室では「甘えてばかりだね」とか「意味ないね」とかの声も聞こえます。

さて、もう一度質問しますね。あなたのお子さんは1ヶ月ほど、学校の別室に行って遊んで帰ってくる生活です。あなたが親ならどんなお気持ちですか?

「少しは勉強してよ。進路どうするの?」そんな気持ちはございませんか?

何の勉強?

私が行っている支援のゴールは「将来の社会的自立につながる力を伸ばす」と教育委員会からの文書には書かれています。

教室に戻る。でもないし、いわゆる勉強をする。でもありません。ここをすごく覚えていてください。教育委員会はこの場所を勉強する場所としていないのです(もちろん勉強が禁止されているわけでもないです)。

将来の社会的自立につながる力を伸ばす。これがこの場所の目的です。

以前、社会的自立とはなんだろうという記事を書きました。そのときの私の結論は、社会の仕組みの中での自立ということは、社会の構成員であることであるので、簡単に言うと仕事をするということとしました(あくまで個人の見解です)。

つまり社会的自立につながる力というのは、仕事につながる力です。なんか話が大きくなってきましたね笑

仕事につながる力。そんなのどの仕事かによって全然違うじゃないか!そうツッコミを入れた方、その通りです。ある仕事には必要な力も他の仕事には必要ではないかも知れない。その逆もまたしかりです。

まあ、そういった役所とかトップからの文書って解釈が複数できるようにつくらないと困るという事情も分かるので、私はその曖昧さを指摘したいわけではありません。

どんな仕事でも必要な力かつその子が身に付けていた方がよい力。これは、教科の勉強だけでないと思うのです。私はむしろ教科の勉強よりも必要だと思う力があります。

それは人と上手く付き合っていく力です。もっと言うと、人といても普通でいられる力です。

なんだそれと拍子抜けするかもしれません。聞き飽きたセリフですよね。でも、なんだかんだやっぱりみんな欲しいんです。この力。

なんなら子どもはこの力の必要性をがんがんに感じています。それでもなかなか上手くいかずに苦しんでいます。一方で勉強は必要性を疑いながらも、「親や教師が言うから」とか「試験に必要だから」という理由でやっていることが非常に多いです。

さて、この記事2つめの質問です。不登校傾向が見られる我が子に必要な力ってなんでしょうか。設定は先ほどの我が子と同じで結構です。どんな力が必要だと思いますか?果たして、一番必要な力は、試験に受かるための学力でしょうか?

どう見るか

誤解がないように言っておくと、私は教科の勉強をしなくてもよいと言っているわけではありません。非常に重要です。学ぶことは本来楽しいことですし、教科の勉強ができると可能性がぐんと広がります。

私は教科の勉強をしていない=何も学んでいない、何も成長していないではないということが言いたいのです。公園でおにごっこをする。友達とカードゲームをする。絵を描く。マンガを読む。これらはひと言で「遊ぶ」と表現されますが、様々な力をつけているのです。

ルールを守ること。微妙な場合、新たなルールを作ること。時間や場所を約束すること。体を動かすこと。負けを受け入れること。物を交換すること。対象に集中すること。まねること。字を読むこと。友達と共通の話題をもつこと。物語を読むこと。物を買うこと。買うためにお金を貯めること。お金を貯めるために何かを我慢すること。

今ぱっと思いつくだけで、これだけの力が先ほど「遊ぶ」と表現した中に隠されています。つまりは子どもの行動をどう見るかによって、評価は大きく変わるのです。だめだと思われている行動も良くなることもあるし、良いと信じられている行動もだめになる。

私の仕事の話にもどります。繰り返しになりますが、私は不登校傾向の生徒を支援する仕事をしています。その子に必要な力とは何なのでしょうか。本当に誰もが学力を一番必要としているのでしょうか。

私にはそうは思えません。まず家から出て学校に出る。まずここからという生徒もいます。学校に来ても学力が一番となる人はなかなか少数派だと私は考えています。やはりコミュニケーションが上手くできない、疲れる、苦しいと感じている生徒がほとんどです。

というものの、コミュニケーションは知識として何かを知れば、はいおしまいとはいきません。何度も何度もコミュニケーションを重ねて、できるようになっていくものです。

であるならば、学校に来て遊んですごすということは、生徒はコミュニケーション力を高めるという勉強をしていると言えるのではないでしょうか。

これをお読みの親御さん、教師の皆さん。子どもに教科の勉強だけを勧めないでください。いわゆる遊びをしたり、一緒にのんびり話したり、テレビを見て笑ったり。そういったこともぜひ勧めてください。一緒にしてください。

教科の勉強だけが勉強ではないと思います。ですから、教科の勉強している、していないで一喜一憂しないでください。様々なことが勉強です。いろんなことを学ばせてあげてください。

最後までお読みいただきありがとうございました。何かの参考になれば幸いです。素敵な一日をお過ごしください。

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