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これでいいのかも知れない。いいのだとは言わない。12/1日記。

BGMにどうぞ。

※今日の日記はあなたの健康を損なうおそれがあります。


エデン横浜を21時過ぎに出る。

(今日のイベントはおめでたい席で、暖かいものでした。おめでとうございました。)

家に着いたら0時を過ぎていた。横浜から帰るたびに「もう少し近くに住みたいな」と思う。だが、これでいいのかも知れない。

距離のある場所へ時間をかけて、それでも行きたいから行く。そして帰って来る。

最寄り駅を降り住宅街を歩く。

僕なんかは名前も知らないであろう色んなスパイスがぶち込まれたメチャクチャ旨いカレー、、の匂いがする。

しかし周りに店はなく、深夜の住宅街だ。

この辺を歩くとたまにこの匂いがしてくる。よくよく探せば小さな店とかあるのかも知れないが知らない。カレーオタクの家が近くにあるんだろうと思ってる。

ほんと勘弁して欲しい。めっちゃ腹減る。

僕は食に拘りがない人間だが、それでも旨いものを食えばやはり幸せにはなる。

しかし僕は食に拘りないがゆえに、拘りある人のことをどこか軽蔑してるところもある。「卑しいな」という種類の感情。そのトップが海原雄山。人の作ったものに「こんなものが食えるか」って言う「美食家」が実在するのなら、こんなに卑しい人はいないと思う。

僕も母親には死ぬほど何回も言ったけど。

まあ海原雄山は極端な例だが、前に付き合っていた子は食に拘りのつよい子だった。例えば2人で旅行から帰ってくると僕は「あそこの景色が良かったね」「あの施設楽しかったね」という感想を言うのだが彼女は「あれが美味しかった」「これが美味しかった」「また食べたい」しか言わない。ある時は仕事の愚痴とか人生に疲れたみたいな愚痴を聞いたときに冗談で「じゃ、死のっか☆」と言ったら「やだ!もっとじじいちゃん(と呼ばれていた)と一緒に色んなとこ行って…色んなもの食べたい!」と言ってて爆笑した。「美味しいものもっと食べてから死にたい!」

誕生日のプレゼントに何が欲しいだろうか。それがお土産とか贈答品なら消え物でも嬉しいが、誕生日のような記念品に食べ物でいい(食べ物がいい)って人の気持ちが分からない。食べたら終わりじゃんと思ってしまう。


だが、それでいいのかも知れない。

食べたら終わり。消えゆく。

遠い横浜から、帰って来る。

深夜にめちゃくちゃスパイスの効いたカレーの匂いがする。

たまらず腹の減った僕は深夜のファミマに吸い込まれた。

家から最寄りのコンビニでも500m離れており、ここは800m。スーパーが家から近くてよく通っているのでコンビニで買い物することは多くない。今日のように出先でとかスーパー閉まってるからという時にしか来ない。

ここのファミマの夜勤にはコチラが恐縮してしまうくらい丁寧な接客のお兄さんがいて、彼の影響なのか他の店員や店内すらも明るく見える。でも久しぶりに入った今日は雰囲気が違った。彼が居なかっただけか、もしかしたら既に辞めているのか。

とにかく腹の減った僕はボリュームのあるパスタを選んだ。なんとなく温めに2分待つのが嫌すぎて家にレンジもないのに冷たいまま買って帰ろうと決めていたので、冷たい弁当よりさらに冷たいパスタは味が落ちるだろうとしばらく悩んだが、今日みたいな日はこれでいいのかも知れない。

レジに向かう。新人っぽい店員さんが無能だった。言葉は悪いが無能と言わせてもらう。

無能はファミチキの入った計器の下の棚あたりにしゃがんで何か作業をしていた。僕は陰気なので無言でレジに立つ。しばらく気付かなかったようだが、ようやくチラとこちらを見たかと思ったら視線を棚に戻した。その視線の動きを3回やってようやくレジに来た。

「あたためは?」

と聞かれたので「そのままで」と答える。

レジを打ち、商品を受け取る。あ、袋がない。僕は耳が悪いのでもしかしたら「あたためは?」ではなく「ふくろは?」だったのかも知れないが、さすがにちがい過ぎて聞き間違うこともないとは思うのだが…

いちおう「ごめんなさい」と謝りつつ「袋ください」と言うと「あ…へ?…はい」と。あれやっぱり「ふくろは?」って聞かれてたのかなぁ、んでもだったら温め聞かへんのかなぁ、まあいっかどっちでも。袋3円の支払いをすませると、パスタを袋に入れてくれた。茶色の弁当用のやつではなく、白くて小さい袋の中でパスタは斜めに収まった。

無能な接客を受けた僕の気分はマイナスではない。ゼロ。コチラが恐縮するほど丁寧なお兄さんのあの接客がプラスなだけである。ただ、代金を支払い、商品を受け取った。少しのコミュニケーションエラーがあった。それだけ。

これで、いいのかも知れない。

僕は一人暮らしの寒い部屋に帰って、冷たく、片寄ったパスタを噛むのだ。

友達と遊ぶ予定がある。

その計画を立ててる時は楽しい。しかしその日が近付くにつれて僕はだんだん寂しくなる。その先にある別れを思い出してしまう。

結婚したらとか猫飼えばって言うのは、寂しさを埋めるためだとしたらオススメできない。愛する家族にも必ず別れはやってくる。その時、目を瞑って忘れていた何年分もの寂しさが襲ってくるのだから、別れの覚悟なしにするものじゃない。



寂しさが居なくなったら僕は寂しい。
孤独が居なくなったら僕は独りになりたい。
死が居なくなったら僕は死にたい。


寂しさを孤独を死を愛したい。


だからきっと、これでいいのかも知れない。

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