男とか女とか、なんなんでしょうか

こんな太古の昔から何万回と繰り返されている議論を今更ちっぽけな一会社員が繰り広げて、何になるのだろう。
だけど問わずにはいられない。
人を惹きつける普遍の問いとは、そういうものなのだろう。

セクハラが忌むべきものと扱われるようになって、きっと随分わたしたちは生きやすくなっているはずだ。
20代の女だからって”結婚”だの”出産”だの言われなくなった。
顔や体のことも不用意にいじられなくなった。
”かわいい女の子”扱いされることもなくなった。(それは、そういう年齢でなくなってきたというだけかもしれないけれど)

わたしをわたしとして扱ってもらえる、それはもちろん嬉しいことだ。
大学院に入る前、親戚に「女の子で文系で大学院卒なんて、もう結婚も就職もできないな」と言われた、あの時のことは悪い意味で一生忘れない。
この先の人生、あの目の前が真っ白になるような、脳みそが止まるような、体の奥底が煮えていくような怒りを味わう機会が減り、そしてわたしの他にそんな想いをする人が減っていくのなら、それはもちろん喜ばしいことである。

だけれども。
最近の、”男とか女とか、なんか言いづらいよね”っていう、この雰囲気はどうなんだ。

わたしの会社の人は、セクハラ教育が行き届いているせいか、とにかく性別に関わる話題をみんな避けたがる。
最先端の感覚を身につけようとする勤勉で素敵な人や、若い人ほどそうだ。
”女子会”なんてワードを不用意に出すのもはばかられるくらい、”性別”に関わるトピックが腫れ物のように扱われている。

でも、わたしはみんなと、ただ仕事にまつわる雑談だけじゃなくて、付き合っている人がいるのかとか、結婚とか子どもについてどう思うのかとか、パートナーとどういうきっかけで出会ったのかとか、そういう話もしたいよ。
恋バナなんてしない方がいいって思ってた時期もあったけど、やっぱ普通に聞いてみたいわ、だって興味あるんだもん。
あなたたちのことが好きで、もっと知りたいと思うから、聞きたくなるんだよ。
同性の仲の良い友達ができたら、自然と恋バナをするでしょう、それと同じだよ。
嫌がってたらやめるし、反対にわたしが答えづらそうだったらすっと収めてくれればいい。
たったそれだけのことをセクハラだなんて騒ぎはしないよ。

本当はもっと、”女/男/それ以外(こんな書き方良くないと思うけど、今は簡単にこう書かせてもらうね、嫌な人はごめんね)の立場から、これこれこう思う”ってたくさん話した方がいいと思うんだ。
そりゃあお互い腹の立つことだってあるだろうけどさ。
だけどいくらだって話したらいいじゃないか、そうでないとお互い何を考えているのか永遠に知ることができない。
そういう話をもっとした方がいいと思うんだ、わたしたち今まであまりにも語らな過ぎたから。

避けるべきなのは、”性別を理由に他者の可能性を奪うこと”であったはずだ。
なんで”性別の違いを思わせるもの”=”話題から外すべきもの、伏せるべきもの”として扱われているんだ。
それで本当にいいのか。
少なくとも動物としての性差なんて、なくすことはできないよ。
どうしたってわたしには生理が来るし、男の人より体力が無いし、子どもを産むことを考えてしまうんだ。
よくわかんないけど、きっと男の人にもあるんでしょう、そういう風に男である以上は避けられないものが?

本当はあるものを見ないふりをして、とにかく触れないという対応を取ることは、あまり本質的じゃないとわたしは思う。
避けて通れないはずのものを避けて歩み続けて、それで本当に辿り着くべきところに辿り着けるんだろうか。
話したっていいこと、話した方がいいことまで封じ込められて、やけに窮屈になってきている気がする。

何が地雷になるかわからないから、とりあえず地雷になりそうなもの全部避けとこうって気持ちはわかるんだけどさ。
そうやって話せるものを減らしていった結果、その人の人間性には大して関係ない、当たり障りのないことしか話せない、そんなのっぺりした世界で本当に生きていきたいか?
”あなたとは深い話もしてOK”、”あなたとは当たり障りのない話しかしません”、この境界はどこにあるんだ。
ただでさえリモートで雑談もろくろくできないのに、聞きたいことも聞けなくて、どうやって他人と仲を深めていったらいいのか、もうわかんないよ。

ちっさな会社員がうだうだ書いてみたところで、やっぱり答えは出なかった。
何も解決していないし、打ち手も浮かんでいない。
きっともやもやしながら明日も過ごすんだろうな。ふう。

最後までお読みいただきありがとうございます。 これからもたくさん書いていきますので、また会えますように。