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年相応って

昨日、日本舞踊のお稽古に行ったら、いつもは違う曜日に来られているお弟子さんがいらした。
その方は長年美容師さんをやってらしただけあって、おしゃれできれいな方である。
ざっくばらんなお稽古場なので、お稽古の合間は雑談になる。
その方が最近ときめいたという話をされていて、「こんなおばあさんが恥ずかしいわ〜」みたいなことを言われたのを、いくつになってもときめき大事!という話になった。

その流れで、その方が
「テレビの事故とかのニュースで『80歳のおばあさんが〜』とか言われると、ひぇ〜私、おばあさんか!ってなる」
と言われたのを聞いて、こちらは、えーーー80歳なんですか!?とのけぞった。
それくらい、私がイメージする80歳とはかけ離れていたのだ。

先生も話に入って来られて、
「私も何かの機会で自分の年齢を書かなくちゃいけない時に、いつもびっくりしちゃう。これって私の年齢!?って」
と言われた。
もちろん、先生も年齢聞いてびっくりの若見えである。
そもそも踊れているということは元気ということなのかもしれないが。

お二人のある意味「年齢相応ではない」ぶりを実感して、そういえば自分もそうだよなと思い当たった。
かくいう自分だって、自分の年齢を考える時にはびっくりしてしまう。
同年代と言えば、平均的には結婚していて子どももいる歳になるが、私は結婚していなければ子どももいない。
キャリアを順調に積んでいれば役職について部下も持ち…というところだろうが、逆にはっきりした道筋がないまま夢だけもって会社を辞めてしまった。
少し前であれば完璧な落伍者である。

ところが今は、幸いなことに、「年相応」や「年甲斐もなく」という言葉に、だんだんと縛られなくてすむ世の中になってきている気がする。
歳を取って若い人のようなファッションに身を包んでいても、その人が好きで堂々と着ていれば良しとされるし、いくつになってもチャレンジすることは素晴らしいことと称賛されるように感じる。

とはいっても、やはり「年相応」というのは感じる。
ただし悪い意味ではなく。というか、悪い意味でもなく、良い意味でもなく、事実として「年相応」を感じるのだ。

例えば、体力は確実に昔と比べてなくなっている。
その代わり、今まで培ってきた経験というものを持っている。
若い頃は体力にまかせて進んでいたところを、今は経験を使って進んでいる気がするのだ。
そういったところに「年相応」だなーと思うのだ。

ただ、若い時だってすべてを体力任せにしてはいけなかったように、今も全てを経験任せにしてはいけないと強く思う。
新しい経験をしたくてチャレンジをしているのに、今まで培ってきた経験則をベースに進んでは新しいところに行けない。
ところが、体力は使いすぎると枯渇したのが分かりやすいが、経験則に縛られ過ぎているかは分かりにくい気がする。
そういったところでも、歳を経てのチャレンジは、より意識的に取り組まないといけないのかなと思った。

いつも以上にとりとめない文章になったが、歳の話からこんなことをつらつらと考えたのであった。

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